舗装された林道を、延々と曲がり伸びる坂道を、僕は歩いていた。

雨はしばらく前に止んだが、未だ厚い雲が空のほとんどを覆っている。そこから隙間を見つけては顔を出す太陽が、湿り気を帯びた光と熱を投げかけてくる。その度に僕は掌を持ち上げてそれらを遮った。まるで気まぐれなその日に敬礼をしているよう。

 僕は、とある山を登っていた。

 蝉が鳴くにはまだ早い時季の今、僕は一歩一歩踏みしめるように、山道を歩いていた。

「っ……。」

 ……やはりどこかに置いてきた方がよかったかも知れないと、脇に抱える自転車を恨めしく思う。毎度のこととは言え、これを押して長い斜面を進むのは、かなりつらい。もはや前方を直視する気力は尽き、ハンドルにしがみつくような形で俯いて歩んでいる。

項垂れて見えるのは、歩道の白線と、交互に突き出る自分の脚。額から流れる汗が、道路のコンクリートに滴り落ちた。

じわりと滲むその痕が、ゆっくりと視界を流れていく。

 

 

 

 

梅雨明

 

 

 

 

 僕が目指しているのは、一本の樹がある場所だ。

その樹とは、この山麓にある小学校の卒業生たちが植えた、つまり卒業記念樹なのだが、今は放ったらかしにされていて、何の手入れもされていない。それどころか、誰かがそこへ立ち入った気配すらない。

 そもそも山の中腹の、誰も気付かないような場所に記念樹を植えること自体、少し変だ。きっと、周囲が梔子(くちなし)の花に囲まれたその場所に、なにか神聖なものでも感じたのだろう。そして記念樹を植えたはいいが、入り組んでいて近寄りにくく、また特別眺めがいいでもない場所なので、張本人の卒業生たちまでもが、植えた樹を忘れることにしたんじゃなかろうかと思う。

 

 僕がその場所を見つけたのは、今からちょうど一年くらい前だった。

何となしに山をひとりで歩き回るのが好きだった僕は、カーブした山道で、木々の切れ目をめざとく見つけた。道路から逸れる、舗装されていない小さな脇道だった。

好奇心でそれを上り、その先にまるで工作の授業で作られたような不恰好なベンチが置かれているのを不思議に思った。さらに茂みを潜って奥へ進むと、甘く濃い香りを感じた。それが梔子の香りとは、まだそのときは知らなかった。

 そしてその梔子たちの輪の中、所在無さ気に立つ、どうにも不自然な樹を見つけた。

 

 

 

 それから僕は、その場所へ通うようになった。何かあったことや、何もなかったことをその樹に伝えた。長々と説くのではなく、枝を見上げ、幹に触れるだけで、その樹は僕の思考を理解してくれているように思えた。

 晴れの日は、木陰のなか自転車をスタンドで立て、座って本を読んだ。落ちた葉が栞にもなった。

 雨の日は幹に背を預け、雨粒が葉を弾く音、雨水が山に嚥下されていく音を聴いた。

 台風の日は、荒波のように踊り狂う枝葉を、自転車を抱えたまま見上げた。

 番いで飼っていた魚の片割れが死んだときはその樹の麓へ埋めたし、自分ひとりでこっそりと練習しているハーモニカを聴かせたのはその樹にだけだった。

 そして今日もまた、その樹へ会いに、山を登っている。もう片方の魚はまだ生きているし、新しい曲が吹けるようになった訳じゃないけれど。

 

 

 

やがて脇道に着いた。道路が大きくカーブしたその箇所から始まる、茂みに覆われた上り階段。

僕は土と丸太で組まれた有機質な階段を、その脇の急傾斜に自転車を乗り上げさせながら力技で上っていく。

さっきまで雨が降っていた上に日陰なので当然土は湿っていて、車輪が何度も滑った。自転車を横に抱えた体勢なので、僕の腕や腰にも矢鱈と負担が掛かる。一層呼吸が乱れ、心臓が跳ねているような脈動が鼓膜を打つ。

 ああやはり、何か飲み物を買っておくべきだったと今更思う。

キャップ付のペットボトルが適しているが、麓にある自販機はすべて缶飲料だ。それでも何か買っておけば、樹の元に着いたときそれを飲むことができたのに。今日に限ってスポーツドリンクやお茶類が売り切れていた。一世代前の型ではと思うような古びた自販機だったので、補充が稀なんだろう。

僕はお金を払ってコーヒーを飲む人間を理解できないので、結局何も買わずに林道を登り始めてしまった。

結果このざまだ。普段出さない汗をだらだらと垂れ流し、喉もすっかり干上がっている。……倒れやしないだろうか。

「う……。」

 情けなく喘ぎながら、顔を上げる。ようやく階段を上り切ると、そこは広場のようになっていた。と言っても、ただ傾斜が無く平坦というだけであって、樹木や草は変わりなく惜しみなく広がっている。

その隅っこで、ここ数年誰かを休めた気配のないベンチが寂しく風化を味わっていた。僕はその脇を過ぎ、雑草を掻き分けながらさらに奥へと進む。草叢が湛えた雨の雫に、ズボンの裾が濡らされていく。今は、その冷たさすら心地よい。

そして辿り着いた。

 あの時と同じ、咽るように甘い香がする。梔子たちが咲いていて、その真ん中に、あの樹があった。僕は幹でも枝葉でもなく、樹そのものを見つめながら、歩み寄っていく。

「……え?」

 その時、樹木に不似合いな色を見た。幹の手前に、梔子とは違う白さの、なにか細長いものがある。

 訝しく注視し、それがヒトの脚であると気付いた。その脚は靴や靴下を履いておらず素足のままで、樹の根元近くに置かれた椅子に乗っていた。腰から上は、枝や葉の茂みで隠れている。

「……っ。」

僕は慌てて樹に駆け寄った。樹陰に入って、脚の持ち主を見上げる。

 太い枝にロープを掛けて、そうしてできた輪に首を突っ込もうとしている少女がいて、目が合った。

「……。」

「……。」

 雲が薄れ、かっ、と日が照った。太陽が、僕と少女以外のすべてを輝かせた。

 

 

 

 

 

 

「……。」

「……。」

 困った。

 どうやら彼女は、これから首を吊るところだったらしい。が、いざ直前になって僕が現れてしまった。この少女はきっと、ここにくる人間は自分だけだと思っていたのだろう。僕と同様に。

「……。」

 彼女は驚きながらも、若干睨むような眼で、椅子の上から僕を見下ろしてくる。

 何があってこういった行動に出ているのかは分からないけれど、やはり自分だけの最期の時間を、他人に文字通り土足で踏み込まれたためだろうか。

「……。」

その細い手はロープの輪をしっかりと掴んでいて、あとはそれに顎を乗せ首に絡ませ椅子を蹴飛ばせば、宙吊りになって死ぬと思う。

「……。」どうしよう。

困って俯く。学校でよく使われる木製の椅子と、律儀に脱がれ並べられた学生靴と、彼女の白い爪先が見えた。

「……どうも。」

 擦れるように耳に届く、けれどよく透った特徴的な声。彼女が発したと決まっているのに、僕はどうしてだがすぐに返事ができなかった。

 顔を上げて、彼女が僕を見ていることで確信を得て、曖昧に頷く。

「あ、はい。……こんにちは。」

 渇きのせいもあり、か弱い声しか出せない。

 しかし、死のうとしている人間との会話は初めてだ。下手に刺激すると突発的に自殺を執行するかも知れない。それはいいとして、僕が巻き添えに殺される可能性だってある。死に際の人間が何をするかなんてわからないのだ。この人は随分落ち着いているように見えるが、それがかえって不気味でもある。

「……ひょっとして、」

そう言って彼女は、樹の脇に突き立っている、学校名とクラス名と年度が記された立て札を指差した。

「あなたはそれの卒業生?」

僕もそのカラフルなデザインの立て札を見ながら、首を振る。

「いや、じゃないけど。」

「……そう。」

「えっと、君こそ、そうなの?」

 この樹と関わりのある人間だろうかと得体の知れない期待をしたが、彼女は「いいえ。」と唇を動かしながら、無言で首を振った。

「じゃあ、どうしてこんなところに?」

「……あなたはどうして?」

「僕は、まあ……ここが好きで。」

 何と答えたものか。

「……そう。」

「それで、君は、どうしてこんなところに?」

 彼女は黙って俯いた。それでようやく、顔を正面から認識する。

 彫像のように丁寧なつくりで刻み込まれた目に対し、そこに収まっているのは光のない、開いた孔のような瞳だった。

「……。」

 応えがないので、問いを変えることにする。

「じゃあ、どうしてこんなところで?」

「……××小学校。知っている?」

「えっと、麓にある? この樹を植えた人たちが通っていた学校のことだよね?」

立て札に書いてあるし。

「そう。それで、××小学校って、ずっと閉鎖してたの。理由はよく知らないけど、生徒の数とか、地区の問題とかで。」

「……はあ。」

「なのに6年前、いきなり再開校したのよ。」

「そうなんだ。えっと、それと君と、どういう関係が?」

「私が卒業したところは、もっと西側にある古い学校なの。カトリック系私立なんだけど。」

「ああ……あの、小中学校。」

こくんと頷く。

「そのとき私には友達が何人もいたんだけど、その学校が開校したせいで、みんなこっちに転校しちゃったの。近かったから。」

「え。 ……へえ、そうなんだ。」

「そうなのよ……。」

「……。」

「……。」

「……まさか、終わりですか?」

「ええ。」

「つまり君は、友達を奪ったその学校に迷惑かけてやろうと思って、ここで首を吊ろうと?」

「そういうことね。」

毅然とした彼女には、一点の曇りも見えない。死に場所として選んだ破れかぶれの理由ならまだしも、それが死因だなんて。

確かに小学生なら、自分の友達を浚った他校を恨んだとしてもおかしくない。が、シックな学生服に身を包んでいる彼女は、間違いなく高校生くらいの年齢のはずだ。そんなことを未だに引きずって尚増長させているなんて。……小学生のまま高校生になったんだろうか?

「あ、」

「え?」

いきなり彼女が、掌を伸ばした。

「それ、貸してくれない?」

「それ? って、これ?」

 僕が手元(と足元)の自転車を示すと、彼女は頷いた。

「死ぬ前に自転車に乗りたいの?」

「違う……。」

 どこか苛立ったように、彼女は首を振る。

「じゃあ、どこか行きたいところがあるとか?」

「そうじゃなくて……足りないの。」

消え入りそうな声だ。

「足りないって、何が。」

「……。 ……たかさ。」

「タカサ?」

 たかさ……・高さ?

「あ。」

 気付く。

 彼女が握っているロープは、明らかにその頭上にあった。あれじゃあいくら背伸びしても、自分の首に届かないだろう。まるで電車の吊革を掴んでいるみたいだ。

「……。」

「ちぎれないように、何重にも結ばなきゃいけなかったのよ。」

 僕から目を逸らし、ぼそぼそと彼女は言う。言い訳がましい。

「……懸垂すればいいのに。木登りして、首が輪に突っ込むように飛び降りるとか。」

「いろいろ足掻きはしたわよ。

でも、助かったわ。あなたが来てくれて。自転車なら高さもあるし、移動もスムーズだし。土台としては最適だわ。まさに天の救いね。」

 もっと早くに救ってもらうべきだったと思う。

「いいでしょう? その自転車を使わせて。スタンドだけじゃ不安定だから、支えてくれると嬉しい。サドルより……後輪の荷台がいいかな。」

「……」

 口を閉ざす僕を見て、彼女は合点が行ったようだ。

「あぁ、そっか。……まあ、気になるといえば気になるわよね。」

「……それはそうだろう。」

誰が、首吊り自殺の踏み台に使われた自転車に乗りたいものか。暗い道を通る度に後ろを振り返りそうだ。

「でも、それもひとつの記念じゃないの。」

「念は他所に残して欲しい。」

「……あ。じゃあ、あなたも死ねばいいんじゃない?」

 一向に頷かない僕を見て、彼女はきれいな発音でそう言った。

「そうすれば、もうその自転車を気にせずに済むし。そうでしょう?」

 思わず顔を上げると彼女の、相変わらず光の無い、けれど弾んだ瞳が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 ようやく止まりかけていた汗が、先とは違う用途で流れ始める。

 呆れと拒否を込めて半眼を向けるが、彼女は不安定に揺れる椅子から降りるのに忙しく、こちらを見ちゃいなかった。

「初対面でなんですけど。君の言うことはさっきから常軌を逸してる。」

 傍に揃えていた靴の上に降り立ち、彼女は意外そうな表情で顔を上げた。

「あなたは、生に執着しているようには見えないわ。」

「……だからといって、死に寛容でもないよ。」

 彼女は目を細め、僕に視線を絡める。

「すごい汗。そんなになってでも来るほど、ここが好きなの?」

 話している間も、前髪から数滴、汗がポタポタと流れていた。

 ああ、不意に人と会い声を使ったせいか、一層喉が渇いてきた。何と無しに胸元を扇ぎながら、丁寧に言い聞かせる。

「そうだよ。だから君には悪いが、ここでの自殺は遠慮願う。

 君がここで死んでも、僕はずっとここに来る。もし他の人間に知られたら、僕が君を殺したと思われるかも知れない。そうでなくても、ここへ来にくくなるのは確かだ。」

「つまり、あなたも死ぬべきなのよ。」

 聞こえていないというか通じていない。

彼女は幹の裏側に置いていたらしい学生鞄を引き寄せ、中をごそごそと探って酒瓶を取り出した。ブランデーなんかを入れておくような、小洒落れたもの。

その口に被せていた拳大のグラスに瓶の中身を注ぎ、それを僕へと向けてくる。

「……?」

行動を分かり兼ねていると、彼女はグラスを持つ腕をさらに突き出した。

「あげる。そんなに汗かいたんだから、喉渇いてるでしょう。」

「……それは、そうなんだけど。」

 こちらへ差し向けられている、鼈甲色の液体を眺める。

「それさ、毒じゃないだろうね。強引に僕を道連れにする気だったりして。」

「!」

動揺を表すように彼女の腕が震え、グラスの液体が揺れた。

「失礼ね。これは自家製の果実酒よ?」

「……。」

 数秒逡巡していると、彼女は腕を引っ込めた。

「いらないならいいわよ。あげない。」

「あ、待った。喉渇いてるのは本当なんで。」

 僕が縋ると、彼女はグラスを渡してくれた。今の僕なら、きっと缶コーヒーにだってお金を出す。

「ありがとう……。」

「いいえ。」

若干怪しいとはいえ、飲みものを貰えるのは本当にありがたい。まだ熱中症による死者は出ていないが、筆頭を飾るところだった。

「いただきます。」

 受け取ったグラスを口につける寸前、ちらりと彼女を見た。一瞬前まで笑顔だったような表情をしていた。

「……。」

「……。」

 膨らむ疑心を抑え、とりあえず一口分、啜ってみる。

 氷でも入れていたのかそれなりに冷たく、思ったよりもあっさりとしている。アルコールもほとんど気にならない(薄めてあるのかも知れない)。まるで清涼飲料水のように、すんなりと喉を通っていく。少し苦いけど、美味しい。

「どうかしら。口に合う?」

 彼女の言葉に、グラスを傾けたまま、頷く。

「ひとくちで致死量に届く毒酒の味は。」

「ごふっ。」

 続いての言葉に気管が揺らぎ、流し込んでいた液体が逆流して飛び散る。

何度も咳き込んで急いで顔を上げると、彼女は横を向いて笑っていた。

「なんて、冗談よ。」

「……君は冗談を言いそうにない。」

 口元を拭いながら、じっと彼女の様子を窺う。特に言及しない辺り、本当に冗談だったのだろうか。だが影の浮かぶ、そのひっそりとした笑顔を見ていると、毒殺くらいやりかねないとも思えてしまう。

「毒なんて入っていないんだよね?」

「だといいわね。」

「一杯ほぼ飲み干してしまったんだ。教えてくれ、どっちなんだ。毒入りなのか、そうじゃないのか。」

「これから死ぬんだから、どっちでもいいでしょう。」

「死なないよ僕は。君ひとり列車にでも轢かれてくれ。」

「ひどいこと言うわね。」

 やれやれ、と彼女は手の甲を腰に立てた。

「心配しなくても大丈夫よ。あなたを毒で殺すつもりなんて無いから。大体、私もさっき飲んだのよ、それ。」

「……それなら、いいけど……。」

 体内に毒物を入れてしまった場合、喉に指を突っ込んで吐き出す方法があると聞く。試したことはないが、今こそその時なのだろうか。

「ところで、首を吊るときはせーの≠ナ飛び降りるタイミングを合わせましょうね。」

 ……そして彼女との心中は決定事項なのだろうか。

「何度も言うけど、僕は死なない。生きてこの山を下りるよ。」

「往生際が悪いわ。」

「君に言われたくないと心から思う。」

「何よ。だったらさっさと自転車を貸して。」

「だったらって……。 とにかく、僕はここで死なないし、君もここでは死んじゃ駄目だ。他をあたってくれ。」

 業を煮やしたように、彼女は身を乗り出した。細い眉をきつく寄せ、

「あなたね、身勝手もいい加減になさい。」

言った。

「いい? あなたはここで私と首をくくるの。この椅子、どうぞ。あなたなら届くでしょ。ロープの予備は無いけど、そのベルトを使えばいいじゃないの。」

「よくてたまるか。」

「この樹を挟んで、二人で宙吊りになるのよ。ほら、なんだかクリスマス・ツリーの飾りみたいじゃない?」

「……本当にカトリック校出身なのか?」

「いちいちうるさいのね。あなた友達いないでしょう。」

「君じゃないんだから。」

「ああもう。とにかく、それでいいわね?」

「遠慮しておく。」

「……。」

 もともと鋭さのある目元が、さらに一層険しくなる。

「どうしても、死ぬ気はないの?」

「……。」

どうしても生かして帰す気はないのかと、逆に聞きたい。

「……ああ。死ぬ気はないよ。」

「そう。」

短い答えに短く応え、ふう、と彼女は肩を落とした。

 僕はすぐさま身構えた。「止むを得ないわね。だったら……こうするまでよ!」と襲い掛かって来るのが容易に予測できるからだ。

「止むを得ないわね。だったら……、」

「!」

「こうしましょう。お互いに譲歩するの。」

「……。と、言うと?」

「私はあなたとの心中を諦める。」

 彼女は記念樹の幹に手を触れ、僕を振り返った。

「ただし、この樹で死ぬことは、許可してもらうわ。」

「……。」

「ねえ、さっきからしてるそのカラテみたいなポーズは一体何?」

「いや、特に。なんでも。」

「そう。とにかく、それでどう?」

「……。」

 死因も含め、こうまで執念深く鬱屈した人間を追い払えるとは思えなかった。それに、例え今回説得しても、次来たときには間違いなく死体がぶら下がっていることだろうし。

 肩を落として頷く。

「……ああ、分かった。もう止めない。自転車も置いていくよ。買い換えることにする。」

 今までニヤリ≠ゥニタリ≠ニしか笑わなかった彼女が初めて、にこりと笑った。

 そして饒舌になる。

「悪いわね。ああせめて新しい自転車の費用くらいはあげたいけど……今日、バス代くらいしか持ってきてなくって。だって、ねえ。まさかこんなことになるなんて思わないでしょう?」

「全くだよね。」

 それにそんな不吉な遺産はいらない。

「あら、初めて意見が合ったわ。それじゃあ、せっかくだからカゴに乗せてくれる? 両脚で立てるし、見晴らしはいいし。」

「……はいはい。」

 最期のわがままくらいは聞いてやろう。彼女の手招きに従って、僕は自転車を押した。幹の正面の位置でスタンドを立てる。

「では、さっそく。」

 再び靴を脱いだ彼女はまず脇の椅子に乗り、そして僕の自転車のカゴに片脚を乗せた。その際眼前でスカートが大きく開いて白い脚が覗いたが、何か嫌なトラウマを負いそうなので僕は目を伏せた。

「う、揺れ、る……。」

「これから死ぬくせに怖がっててどうする。」

「怪我は嫌なの……押さえててちょうだい。」

「……はいはい。」

ハンドルを握って、足場が揺れないように安定させる。

 幹にすがりつきながらゆっくりと、片脚ずつを慎重に、彼女は椅子から自転車へ乗り移っていく。当然、結構な負担が僕の肩へと掛かる。

ここへ来るまでに十分味わったのでどこか慣れつつあるとはいえ、やはり人間一人を支えるとなるとかなり重い。

「ん……!」

「……ちゃんと掴んでてよ。……まだ離さないでよ。……まだだからね……ちゃんと持ってる? 絶対まだ離しちゃだめだからね?」

「わかってるよ。補助輪外したての子供か君は。」

 力みつつもぼやき、ぐぐ、と傾きを修正する。カゴが小刻みに揺れる度、「ひっ。」とか彼女が息を呑むのが聞こえてくる。そして、

「……。ふう……。」

玉乗りの練習をする新入りピエロのような風情で、やっと彼女は自転車のカゴに立った。その体重が垂直に伝わり、前輪が柔らかな土に食い込む。代わりに僕は少し楽になった。

「乗れたね。」

「乗れた。」

 雨上がりの陽射しは、それこそ降る雨のように葉の隙間から漏れ、彼女の地味な制服に模様を与えていた。瞬くような木漏れ日が、少女の満足気な顔とその手が握るロープに揺れる。

 

 

 

 

 

 

「そういえば、まだお互い名前も知らなかったわ。」

 不安定な足場で落ち着かないのか、それともようやくありつけた死に高揚しているのか、若干震えた声が頭上から聞こえた。

「別にいいよ。死ぬひとに名前を覚えられたくないし、死ぬひとの名前も覚えたくないし。」

 腕に力を込めつつ、返答する。

「それもそうか。……じゃあ、」

「うん……。」

 自然と顔を上げ、これだけ近くても細い胴の向こうで、まっすぐにこちらを見下ろす彼女の顔が見えた。

「協力、ありがとう。あなたのことは忘れないわ。」

「どういたしまして。僕はなるべく早く忘れることにする。」

「……。」

 彼女は細い顎を持ち上げ、輪に掛けた。

「……。」

 そしていきなり、思い出したように、

「あ、果実酒、残りもあげるから。」

「え? ああ……ありがとう。」

「日持ちするし。」

「うん。」

「うん……。」

「……。」

「……。」

「……あの、急かすようで悪いけど、そろそろ腕が限界みたいなんだ。」

「あ……、わかった。」

「……えっと、」

「じゃあ……、」

「……ん、」

 

 

 

 

「さよなら。」

「うん。さようなら。」

 

 

 

 

 腕にかかっていた重みが、すっと消えた。

少し痺れてきていた肩から力が抜ける。

 枝に勢いよく体重が掛かり、葉がざわめいた。ざざあっ、と樹下にだけ短いにわか雨が降る。それを浴びながら、邪魔にならないよう、僕は自転車を引いて後ろに下がった。

「……っ。」

 ロープが伸びきって、がくん、と彼女の体が跳ねた。伴って髪の毛がしなやかに波打つ。

その一瞬だけ苦しそうに顔をしかめた彼女は、すぐに眠りにつくような表情で、宙吊りになった。

「……。」

 僕は自分の心臓を押さえた。脈動。一定のリズム。この一拍一拍が過ぎるごとに、彼女は生から遠ざかっていく。死へ近づいていく。

 そういえば、人間は死んでもしばらく生きているらしいと聞く。つまり、死生の境界線は曖昧で、即死という即死はよっぽどの場合でしか無いということだ。首を刎ねられた人間ですら、少しの間視線を動かすというし。

 となると彼女もまた、喋らずとも何らかの意思を死に際に抱くかも知れない。そう思って顔を上げようとしたとき。

 いきなり頭上で、ばぎんっ≠ニいう鈍い音がした。反射的に目で追おうとしたが、地面に落下し倒れ込む少女にピントが固まってしまい、

「……え。」

 そしてようやく、こちらへ向かって大きくしなる、太い木の枝を見上げた。

振り下ろされる、死神の鎌のようにも見えた。

 

 

 

 

 

 

 視界の右半分を埋めているのが地面だと気づいた。まだ湿り気のある土が、倒れている僕の頬を汚している……・ことだろう。

 ああ、僕は倒れているのだと理解する。

 起き上がろうとしたが、うまく手足が動かない。不思議に思って身体を見下ろす。慣れ親しんでいた身体だが、今までに見たことのないアングルだった。銀色のハーモニカが、胸ポケットから顔を覗かせていた。

 ……視線を持ち上げる。樹の麓でうつ伏せに倒れていて、ようやく身体を起こした少女が見えた。後頭部をさすりながら、信じられない≠ニ訳が解らない≠ェ織り交ざった表情で、立ち上がれないままに辺りを見回している。

 ああ、ロープを掛けていた枝が折れたのだ。彼女が這いずってどけたのは、折れて落ちた枝だ。ロープもそれに結ばれているし。枝は僕の方へ続いているし。

つまり、折れた枝は彼女の重みで向こうから落下して、それが重点と支点になって、ハンマーみたいに勢いよく振り落とされたんだろう。僕は顔を上げた瞬間にそれを脳天で受けたんだろう。

倒れている理由はわかったが、体が動かない理由がわからない。こうして意識がある以上、衝撃で頭が割れたとも思えないし。ひょっとすると、首だろうか。

やがて彼女は僕に気づき、犬のように四つん這いで近寄ろうとして、枝に結ばれたままのロープが張ってまた首が絞まって一度白目を剥いて、忌々しげにそれを外してからやっとこっちへ着いた。

 やはり土で汚れた彼女の顔と髪が、視界を間近で行き来した。呼びかけようとしたが、声が出なかった。

それから、彼女は樹を振り返る。

 困ったな。ひとりじゃカゴに乗れないし、乗れたとしても、あっちの枝には届かない=c…そう聞こえた。

 咳が出そうになったが、出なかった。ただ、変に喉と肺が苦しかった。

 心臓の音。一定のリズム。どくどくと、自転車を押して山を登るときのように。

「しかたないか。……ま、自転車もあることだし。」

吐きたくなるほど甘い香りの中、そんな言葉が聞こえた。

 ぶつくさ言いながら自転車のスタンドを蹴って外す少女と、その向こうでざわめく梔子の花が見えた。

 

 

 

 

 

 

説明: 説明: 説明: 説明: cyou-s-3 説明: 説明: 説明: 説明: cyou-s-4