出 梅
三六〇°どこ見回しても顔が目に入るこの教室も、絶えぬよう引きずられる声も、からくり仕掛の人間関係も、私にはうんざりだった。
だからいつも、イヤフォンで耳に栓をしている。瞼で目に蓋をしている。一日で最も賑やかな昼休みの時間を、こうしてパスしている。
「・・・、っ?」
好きなロック音楽を聴いていて突然、こめかみのあたりに痛みが走った。突然のことに驚いて目を開けると、私の机越しに、女生徒がひとり立っていた。
「あ、ごめーん」
彼女はそう言って苦笑し、私の頭を撫でた。
「痛かったよね」
「別に・・・」
彼女は私の耳から不意打ちでイヤフォンを引き抜こうとして、それに絡んだ髪の毛まで一緒に引き抜いてしまったのだ。向こうは向こうで驚いただろう。
「それより、何?」
「うん。あのさ、しょこ」
勝手に付けたあだ名で呼ぶこの娘は、よく私に構ってくる。いつも元気で誰にでも話しかけるような性格だから、私にでも話しかけるのだ。
「こっちの色とこっちの色とで迷ってるんだけど、しょこ的にはどっち?」
チラシを掲げ、飾りつけた爪で携帯電話の写真を指した。オレンジか水色かということらしい。
「こっち」
どちらでもない灰色の機種を示す私に、彼女はどこか期待していたような笑みを見せた。
「もー、シブすぎるよ。それってしょこの趣味じゃん」
それは当然に思うがね。
「私的にはねぇ、このオレンジがいいなって思うの。後でミカンのデコつけようと思ってるから」
「そ」
美味しいといいね。
「キョンは携帯買わないの?」
「うん」
「どうしてどうして?」
・・・よく動く口だ。
彼女の健康的なピンク色の口を見るたび、消しゴムでも突っ込んでやろうかと思う。黙るだろうし、その時目を剥く様が少し見たい。
「必要ないから」
ドラムとベース音だけが漏れるイヤフォンを拾って、また耳に押し込もうとしたとき、ふと窓の外に気づいた。
雨が、止んでる。
「・・・」
「え? あ・・・しょこ、どこ行くの! もう先生来ちゃうよ?」
「トイレ」
「椅子、持って?」
「・・・」
教室の扉を閉める。
梅雨が終わる。
今だ≠ニはっきりした区切りはないものの、気象予報ではもうじき梅雨が明けるのだという。
雨季が過ぎ去れば、次に来るのは本格的な夏。これから気温はぐんぐん上がることだろう。地表の生物たちはその暑さにぜえぜえ喘ぐことだろう。私には関係のないことだ。
なぜなら、私もまた終わるから。
学校から持ち出した椅子と、常備しているロープが入った鞄を抱え、私はバスに乗り込んだ。向かうはあの山。私にひどい仕打ちを与えたとある学校とゆかりのある、あの山。
「・・・」
椅子ごと車内に乗り込んだ私に、多くも少なくもない乗客たちは驚いていた。私は座席の隣に椅子を置き、そこに座る。思ったより揺れて、心地よくない。それに、乗客たちの視線をあちこちから感じる。
数回目の停車の際、たくさんの買い物袋を下げた中年の女性が車内に入ってきた。そのとき座席は空いておらず、彼女は途方に暮れているようだった。
「・・・あの、」
私が声をかけると、女性はすぐにこっちへ向いた。
「ここでよかったら」
ざわっ。
乗客たちが静かに慄いた。
女性はあらどうも、と頭を下げて歩み寄ってくる。
「・・・」
私が譲ったそれが、バスの座席でなく、ただそこに置かれた椅子であることに、彼女は気づいたようだった。一瞬、その女性は目が点になっていたが、そして疑問を抱いているようだったが、バスが動き出したので、結局椅子に腰を下ろした。
女性はかなり居心地が悪そうに座っている。私はそれを間近で見下ろしながら、吊革に掴まる。
さらにいくつかのバス停を経て、目的の山付近に着いた。あの小学校の正門前だ。
「あの、」
私が声をかけると、女性は私を見上げた。
「私とその椅子、降りるんで。どいてくれますか」
バスから降り、私は小学校のグラウンド沿いの道を歩く。椅子を引きずりながら、あの山に向かって歩く。
「・・・」
放課後のグラウンドで、生徒たちがドッヂボールをしている。きゃあきゃあ喚いて飛び跳ねている。それをネット越しに見る。
ふん、悪魔の子らめが、と思った。
何度も持ち方を変えながら、椅子と山道を歩く。息が弾み、汗を流す感覚。ずいぶんと懐かしい。
「・・・っ」
とはいえ、さすがに疲れる。べつに急いでいるわけでもないし、せっかくの最期なんだからのんびりするか。そう思い、休憩することにした。カーブミラーの根元に椅子を置き、そこに座った。
山なだけあってか、ここは少し涼しい。今の時間でこうなんだから、朝は寒いくらいなんだろう。
鞄を開け、持ち歩いている果実酒で口元を濡らす。アルコールは薄いので、幼いころからジュース代わりによく飲んでいた。水筒代わりにしているのは、さすがに私だけだが。
さて、目的地と目的まで、あと少し。立ち上がり、椅子を抱えた。
汚らしいベンチの奥、荒れ放題の茂みを越えて、辿り着く。
××小学校卒業記念樹=Bそう記された立て札。当時流行っていたらしいキャラクターのイラストが添えてあり、あてがわれたフキダシに、『みんなの思い出の記念樹』と書いてある。
私はその記念樹に歩み寄った。幹の直径は、バスケットボールくらい。蹴れば揺れる。
「・・・」
鼻炎のせいで今まで気づかなかったが、ここは何か香るものがある。甘く、ぼうっとしてしまいそうな・・・そう、酔い痴れそうな匂いだ。
周囲に咲いているあの花たちの香だろうか? なんという花なのだろう。よく考えたら、花の名前とか花言葉とか、そういう女の子らしいことを全然知らない。まあ、もういいんだけれど。
急ぎでもないが、あまりのんべんだらりともしていられない。私はロープを取り出し、輪を結んでから、枝に引っ掛けた。それから絡ませたり編んだりして、しっかりと固定する。これで、首を吊っても解けないはず。
さて、いよいよ。私は靴を脱ぎ、椅子に立って背筋を伸ばした。輪を掴み、引き寄せようとして、・・・そのまま数秒が流れた。
「っ・・・」
なんだ、これは。
「っ。っ」
まずい。これは、まさか・・・。
「・・・とどかない」
なんてこと。
あぁ。取り返しのつかないことをしてしまった。私は、万が一を恐れすぎた。恐れすぎて、足下をすくわれてしまった。
「・・・なんなの!」
幹を蹴る。枝や葉が揺れて、どざっ、と雫が落ちてくる。一層腹が立つ。
「マッチがあれば火をつけてやるところよ! アルコールだって持ってるんだから!」
吼えて、幹に額を押し付ける。
「・・・うー」
落ち着こう。癇癪を起こしてもしかたない。どうにかしないと。
輪の高さを間違えただけだから、なんとかなるはずだ。例えば、椅子の下に土を集めて足場を上げるとか。
「スコップがなければ無理ね・・・」
ではジャンプして首を突っ込む・・・。
「なんて器用なことできないし・・・」
ああ、どうしよう。いっそこの椅子から思い切り飛び降りてみようか。頭から落ちれば、死ねるかも。
「でも、足場がやわらかいな・・・。中途半端に苦しむなんて一番困るし。だいたい首を折って徐々に死ぬなんて惨めでいやだ・・・」
もう諦めて、瓶で手首を引っ掻こうか。それが無難だろうか。でも死体が見つかったとき、「いや、このロープはなんだよ。さてはこいつ首吊りに失敗して手首切りやがったな」ってばれたらどうしよう。そんなの死にきれない。
半ベソで地団太を踏む。椅子がぐらぐら揺れる。
こんな山奥にまで来て、ただ樹に縄結んで帰るもんか。神が私を見捨てるはずがない。きっと今に天の救いが訪れるはず。
我ながら往生際が悪い(その際≠ノすら辿り着いていないが)とは思いつつ、輪を掴んだ。首よ伸びろ今こそ伸びろと念じているまさにそのとき、
「!」
いきなり、ひとりの少年が樹下に現れた。
「・・・」
「・・・」
まったくの出し抜けだった。さすがに驚く私を、その少年も見開いた目で見つめてくる。
「・・・!」
ふと、周囲が太陽で眩く照らされていることに気づいた。
改めて少年に目を向ける。
「・・・」
ああ。
この、自転車を抱えた、汗の似合わぬ、けれどやけに上目遣いが似合う彼こそが、この少年こそが、天の救いなのだろう。
そう思った。
―草々―
♪ 登場人・物
・僕(少年)
故。関わりのない記念樹と逢う少年。数キロの距離を越えて辿り着いた目的地にて、数十キロの衝撃を。されど死因は餓死。
・少女(私)
自転車ドロボー。
・樹(××小学校卒業記念樹)
肝心なところで力尽きた、いつかの卒業生たちによる記念樹。麓には死体がいくつか。
・梔子(くちなし)
甘く香る花。桅とも書く。