無題#_02
理由は教えてくれないので分からないが、僕の恋人であるミソラさんには首が無い。
つまり、肩から上が存在しないということだ。
しかしまあ、別段困ることもない。手を繋ぐこともできれば、膝枕をしてもらうこともできる。そうミソラさんの膝枕ときたら、それはもう心地いいもので、僕は何度彼女の膝で眠ったか数え切れやしない。そうしているときに外から鳥のさえずりなんかが聞こえたりすると、僕はもう世界という世界をいとしく思ってしまう。
そうは言っても、最初はやっぱり戸惑うことも多かった。首がないということは顔が見えないということなので、彼女の表情が読めないということなのだ。おまけに声も出せないので、意思の疎通が困難だった。
最近になってようやく、ミソラさんのちょっとした手つきや背の向け具合、歩調などで、だいぶ彼女の心境を感じ取れるようになったけれど。
ある日のこと。僕が窓際のテーブルで読書をしていると、ミソラさんがすたすたと歩み寄ってきた。なんだろうと思い顔を上げると、彼女は向かいのイスに座り、ぐ、と身を乗り出した。そしてポケットに常備しているメモ帳を取り出し、ボールペンでさらさらと字を書き連ねていく。
動作が終わるのを待っていると、彼女はメモ帳を僕に見せた。
“なにを よんで いるの”
声を出せないミソラさんからのメッセージは、大抵そうして届く。
僕は答える。
「さくらももこの、『たいのおかしら』だよ」
彼女は声や音を聞き取ることはできた。僕の返事に、“おもしろい?”とまた問うてくる。
「うん。結構おもしろい」
彼女はどこか満足げに、“そーなんだ”とメモ帳に書いた。僕は、
「読んで聞かせようか?」
と提案した。少し驚いたらしく、彼女のペンが加速する。
“たいへんでしょ?”
「まぁラクじゃないけど。でも僕がひとりで読んでるのも不公平じゃない?」
ミソラさんはしばらくおかしそうに体を揺らして、それから
“じゃあ、おことばに甘えて”
と書いた。僕は頷き、最初のページに戻った。
ミソラさんとの生活はそんな、お互いがお互いに寄り添うようなもの。
僕はミソラさんにできないことを代わりにしてあげて、ミソラさんは僕が落ち込んだとき慰めてくれたり励ましてくれたりする。
首がないからキスとかは出来ないけれど、出来なくても、僕は彼女のことをたいせつに想っている。きっと彼女も。
共に寝て、共に起きて、共に話して。共にいる。僕は、この日々以外に、なにもいらない。ずっとこうしていたいと思う。
彼女に本を読み聞かせながら、この日常をいつも通り静かに願う。
付き合い始めて、半年が経った。
僕らは相変わらず、繋いだ手を離さないよう、互いの温もりを見失わないよう、生活していた。
ある日、アルバイトから帰った僕を出迎えたミソラさんは、肩の上に、つまり頭が在るなら在るはずの空白の位置に、どうしてだか風船を乗せていた。デパートなんかで子供に配ってるような、杏子色の風船。
「なんだいそれ」
ミソラさんは茶目っ気があるので、また僕を笑わせようとしているんだと思った。
表情が見えなくても、例えば花瓶を倒したりした時のあたふたと慌てる彼女の様子は、なんだかとても可笑しかったし。
ミソラさんはメモ帳を僕に見せた。
“首の代わりにならないかと思ったの。この風船に帽子をかぶせたりしたら、首があるように見えないかなって”
「うーん。難しいんじゃないかな」
そう言うと、彼女は落胆した様子で、メモ帳を二回捲った。
そのページには、“残念だわ”と、書かれていた。
二回捲ったページに、そう書かれていた。
何も言えず、彼女の手を握った。
何も言わず、僕へと身を寄せる。
肩に触れると、彼女が小さく震えているのが分かった。
子供のように胸元へしがみついてくる。
よく知っているはずの体温が、遠く感じた。
細い腕は、僕へ抱きつく力を強めるばかり。
そしてそれでも、彼女は涙を流せない。
壁に背を預け、並んで座る。
暗い部屋で、肩を寄せ合う。
「・・・・首の代わりが欲しいのは、外に出掛けたいから?」
ミソラさんの指が、僕の膝に文字を書く。
“う ん”
「・・・・そうだよね。そうしたら、自由に歩き回れるもんね」
しばらくそのままでいて、ふと、僕は顔を上げた。そして、ミソラさんの、本来顔があるはずの場所を見つめた。
「ねえ」
“わがままいって ごめん”
そう動かしていた指を止め、彼女は僕に向き直った。
聞く。
「ミソラさんには、どうして首がないの」
少しの間のあと、彼女はボールペンをかちりと押した。
“わたし”
“ ごめん やっぱり いいたくない”
“ううんそんなことない”
“あのね わたしのくびは わたしのいえにあるの”
“みえるの わたしのへやのなかにおいてある”
“いや あのいえもどりたくない”
“だめ そんなの”
“そうだけど”
“で も”
“ 、 ”
“ わ かっ た”
住所を聞いて、僕は彼女の家に行くことにした。