散った桜に続くよう、

 我先にと芽生え咲いた草花たちがその盛りを失くすころ。

 半ば厭われ払われるように、夏は終わりへと向かっていく。

 

 

 

 

 

 

放 課 後 一 夏 籠

 

 

 

 

 

 

 引退した部活に未練とかはない。

 「人数が足りないから」と友人に頼まれ、明らかに暇を持て余していた帰宅部の俺は、ほとんどボランティア精神で入部したのだし。そんな俺を擁して地区大会の準決勝まで進むなんて、本当に出来すぎの結果だったのだし。

 そういった、行きがかり上にしては十分すぎる記録を残し、そして俺たち三年生はこの夏、部を引退と相成った。

 しかし、今までずっと強制的に取り上げられていた放課後なんて時間をいきなりつき返されても、正直のところ戸惑ってしまう。

 なので今日、受験勉強しかすることの無い家に帰る気もせず、俺はなんとなく教室に居残ってしまっていた。

 大抵のクラスメイトは塾だなんだと慌ただしく下校していく。帰り支度に手間取るフリをしていたら、あっという間に教室は俺一人になった。

「・・・」

 両手足を投げ出し、イスにふんぞり返ってみる。

 窓際でもないこの席から見えるのは、傾いた日の光で、木の色に染まる教室。

とあと、受験を控える3年生校舎の、気忙しいけれど弾みのない空気。

「・・・うーん」

 なんて、呟いてみる。何気ない発声が思いのほか大きく聞こえ、それに驚く自分に笑う。

「・・・」

 しばらく切り損ねている髪をかく。

自分しかいない場所なのに、なぜか周りから圧迫されるような居心地の悪さを感じた。まるで視線に囲まれているような。

「・・・ふう」

一息吐き、俺はカバンを手にして席を立った。通りがかっただけで吠えてくる犬の前を過ぎ去る心境で。

 教室を出、廊下を曲がり、階段を下りる。そのまま下駄箱へと向かえばいいものを。

俺の心中を察しているのかいないのか、この足は自然と体育館へ向かっていた。

 

 

 

○      ○

 

 

 

 「・・・あれ」

 静かだな、と気づいた。渡り廊下を越え体育館は眼前だというのに、やかましいくらいの掛け声とか、顧問の教師の怒声とか、靴やボールが床を揺らす音とかが聞こえてこない。

 不思議に思いながら扉をくぐり、通路に上履きを脱ぎ捨て、フロアに足を踏み入れる。

 

 

 

 一瞬、誰もいないのかと思った。

 それくらい、綾瀬の姿は体育館に溶け込んで見えた。

「・・・」

 この広い空間に何の音も響かせず、彼女はバスケットボールを胸の前に抱えて立っていた。二階部分の窓から差し込む光を、はらはらと舞う埃が細長くかたどっている。対照的に、それを纏う綾瀬の姿は静かだった。

彼女はオレンジ色の横顔で正面のバスケットゴールを睨んだまま、ゆっくりとフォームを構え、両手でシュートした。それは古いフィルムが映しているような、どこか霞みがかった、非現実的な映像だった。

 一瞬遅れて、シュートの軌道を目で追う。緩い放物線を描いたボールは、バックボードとリングに当たってほぼ直角に弾かれた。

「・・・あ」

 やばい、と思った。バウンドするボールが、俺のほうへと転がってきたからだ。

 外したシュートボールを追おうと綾瀬はこっちを向いて、自然、扉の前で突っ立っていた俺と目が合った。

「あ・・・」

 綾瀬が、いけない、という表情をした。俺はすぐにその場を立ち去ろうとしたが、

「・・・先輩、暇なんですかぁ? だったらボール拾いくらいしてくださいよ」

と、すぐにいつもの調子で言われた。

「・・・、・・・」

 振り返りかけていた俺は、何を言うでもなく口をゴニョゴニョと動かしながら七歩歩いて、ボールを拾い上げた。

「・・・」

 嫌というほど馴染んでいるはずの感触だが、バスケットボールはこんなにも重く硬いものだっただろうかと考える。

と、綾瀬が小さく手を掲げて待っているので、俺は下から放るようにボールを投げ返した。

「ありがとうございまーす」

 両手で飛びつくように受け取って、綾瀬が言う。

「・・・」

 まともに顔を合わせられず、そのボールを見ながら訊ねる。

「なんで一人なんだよ。他のやつらは?」

 同じように手元のボールを見下ろしていた綾瀬は、おかしそうに笑った。

「先輩? 今日、水曜日ですよ」

「? 知ってるけど」

 一瞬何のことかわからず、

「・・・あぁ、」

けれどすぐに気づいた。

「外練か」

「はい。今日は10kmのマラソンです。そのあと基礎とステップと、シューティング50本」

「10km? 7.5じゃなくて?」

「増やしたんですよ。5kmコースを2周回るんです」

「考えたくない」

 あはは、と笑う。

「他のコがタイム計ってるんで、私はモップ掛けでもしとこうかと思って」

「ふーん・・・」

 サボってたくせに。

「それで一人だったのか。でも、隣までいないのは?」

 奥側の、バレー部のコートを指差す。

「バレー部さんは、遠征に行ってますから」

「・・・ああ」

 何気ない口調。

バレー部は本戦まで勝ち進んでる。だから県外でまだ他校と試合してるんだ。

「・・・」

 同じく静寂でも、向こう側のコートとこちら側とでは、違う。そんな思考が始まろうとしたとき、綾瀬がいきなりボールを投げつけてきた。

「うぉあっ」

 慌ててキャッチし顔を向けると、彼女は両腕を突き出して笑っている。

「お前、危な・・・」

「先輩、受験勉強たいへんでしょう。でもたまには体動かしたほうがいいですよ」

 そう言いながら、すたすたとゴールに向かって歩いていく。

「綾瀬?」

「もともと先輩は周りが見えなくなるタイプでしたけど、それにしてもさっきのパスはひどすぎです」

「いや・・・おう」

 バックボードの麓に立つと、綾瀬は軽く手を叩いた。

「せっかく誰もいないんだから、久しぶりにシューティングしましょう。フォーム忘れてないか、ちゃんとチェックしてあげますから」

「・・・」

ボールを見下ろし、そっと床に落とす。跳ね返る。伸ばした手のひらで押さえ、さっきよりも強く突いてみる。

 だんっ、と低音が重く、床に響く。きいんと、高音が薄く、ボールに響く。

 足元と、手のひらに伝わる振動。

 ・・・カバンを放って、フリースローラインに立った。顔を上げると、正面にゴールとバックボード。その下に綾瀬がいる。

「・・・」

 両手に持ったボールを頭上に掲げ、重心を低くする。曲げた膝に力を入れて伸ばし、右腕を突き出した。放つ。

 ボールは遠ざかっていき、そしてリングの淵に当たって、少し離れた床に落ちた。

「あらら」

 綾瀬が駆けて外れたボールを拾いに行く。

その姿を見て、思い出す。

 

 

 

○      ○

 

 

 

 綾瀬は一学年下の、女子バスケット部員だった。

といっても女子部なんて名ばかりで、ほとんど男子部のマネージャーのようなことばかりやらされていた。部分練習のパス出しから、試合の得点表記、練習着の洗濯とかまで。ごくたまにコートの端っこで、二人組みでのパス練習をしていたくらいのものだった。

 そんな、中にはバスケット経験者もいる女子部員が、新参者である俺の世話までしてくれて申し訳なく思ったことを覚えている。

 綾瀬も中学時代からバスケットを続けていたらしく、同じく新入部員でしかし初心者の俺に、基本のドリブルやピボットのステップを教えてくれた。ついていけないような複雑なチーム練習をする間、そうやって俺はよく綾瀬に任されていた。

そしてシュート練習の補助をしてくれたのも彼女だった。まさに今の、この形。各ポジションに俺が立ち、ゴールの下に綾瀬が立つ。シュートが入れば、彼女は目の前に落ちたボールを拾って俺にパスで返すだけでいい。けれど今のように外れた場合、弾かれたボールを追って走り回らなくてはならない。自分の下手さで他人を動かすのはやはり忍びなかった。本人は、「ダイエットになるからちょうどいいんです」なんて笑ってはいたけども。

 また、的を外したボールが、体育館を二分するネットをくぐり、バレー部のコートに転がっていったのも一度や二度じゃなかった。そのたびに綾瀬が謝りながらボールを受け取りにいき、半ばサーブのような強さでボールを投げ返すバレー部員に頭を下げていた。いくら後輩とはいえ、その任を負わすのはかなり気が引けた。

 とにかく、そんな彼女の熱心な指導のおかげで俺は割合スムーズに基礎技術を身につけ、人数の少なさもあって、早くに試合にも出してもらえるようになった。

 当然、敵どころか味方にさえついていくのもままならない状態で、足を引っ張ることのほうが多かったけど、それでも何かしらチームに貢献する度、綾瀬は喜んでくれていた。明らかに俺よりも。

孝行というと年寄りじみてるかも知れないが、シュート練習で走り回らせた日々に少しでも報いたかったし、手取り足取り教えてくれた彼女が自分の働きで嬉しそうに笑うのは、素直にいいことだと思えた。ダラダラと無為に過ごしてきた自分にとっては、初めての遣り甲斐と呼べるものだったかも知れない。

 

 

 

「・・・っと!」

 また、不意にパスを受け取る。

「先輩、さっきからぼーっとしすぎ」

「あぁ、悪い・・・。

ん、手首が利いてなかったのかな」

「そうですね。バックスピンが弱かったみたい」

「OK・・・」

 再度フォームを構える。

さっきよりも肘に神経を集め、手首を返してボールを放る。

「う」

と、今度は飛距離が伸びず、リングの手前をようやく掠める程度で床に落ちてしまった。

「今のは腕だけでした! ちゃんと膝!」

「スマン」

 前は三本まで許してくれたのに。気が短くなってやがるこいつ。

「危うくエアボールでしたよ!? 手で投げ飛ばすんじゃなくて、全身で放るんですっ!

 下半身で距離、上半身で角度! こう、こう、こう!」

「・・・」

「なんで笑ってるんですか・・・」

「あ、いや悪い。大丈夫、お前に関する思い出し笑い」

「ちょっと!」

 

 

 

○      ○

 

 

 

 部活を始めてからというもの瞬く間に時間が過ぎ、気付けば三年生になっていた。バスケット部にも新入生の入部者が加わったが、皆その長身を買われて勧誘されただけの初心者だった。

俺は自分が少しでも巧くなるための練習に精一杯で、到底後輩を指導など出来るはずも無かった(元々未経験者だったし、新キャプテンは俺を引っ張り込んだ例の友人だったので、その辺りは理解してもらえた)。そうして彼ら初心者の練習は、また綾瀬が面倒を見ることになった。

 俺は漸くゲーム方式の、つまり複数の男子とぶつかり合いながらのチーム練習に参加していた。なので同じ部ながら、綾瀬と顔を合わせる時間はかなり減った。といっても今までの練習が付きっ切りだったのだから、ようやく通常に成っただけだったけども。

 

 

 

 一度、練習を終えての下校時に、定期入れが見つからないことがあった。

おそらく部室のロッカーに忘れたのだろうと思い学校へ取りに戻ったその時も、隣り合っている体育館を俺は何気なく覗きに行った。

「・・・」

 まずははしゃぐ声が聞こえた。様子を見ると、どうやら後片付けの途中らしい、綾瀬がボールを磨きながら、男子部の一年生たちに指示している。が、彼らは余ったボールで、とても練習とは呼べそうにない遊びに興じていた。何度か綾瀬が注意するが、聞く気配はない。

「・・・」

 俺は立ち寄った心持ちのまま、ふらりと体育館に入った。顔を伏せてボールを磨いていた綾瀬に歩み寄ると、彼女がこっちを見て目を丸くした。

「あ、先輩」

 等閑に返事し、いくつかのボールを挟んで向かい側に腰を下ろす。一つを転がし寄せ、同じように磨き始める。

 そんな俺に気付いた一年生達は戸惑い、やがて無言の威圧を感じ取ったのか、用具室からモップを取り出して来て床を走らせ始めた。

 手を休めないまま、俺と一年生達を交互に見つめていた綾瀬は、はぁ、と再び俯いた。

「・・・先輩、すみません・・・」

「謝るなよ。忘れ物取りに来ただけだから。・・・でも大変そうだな」

「ええ。激ヤセしそうです。ダイエット大成功」

「大丈夫かよ・・・ちょっと気にはなってた。腕白な一年たちが、明らかにお前の手に余ってるって」

「あはは、大丈夫ですよ。というか、先輩が手が掛からなすぎたんです」

「・・・そうか?」

「はい」

「ん・・・」

「・・・」

 外はもう暗く、だから体育館の中は妙に明るく、広く感じる。その隅に座って、ワックスと布でせっせとボールを磨き続ける。傍らの、膝くらいの高さの窓からは、「夜の蝉」とでも呼べそうな虫の声が聞こえる。

「・・・なんか、不思議な感じですね」

 声に視線を上げると、同じことを思ったらしい綾瀬が、曖昧に微笑んでいた。

「うん。何か、悪い。三年になった途端、こういうの手伝わなくなって」

「なに言ってるんですか。先輩はもうプレイヤーに専念しなくちゃ。というかそれこそ・・・先輩、こんなことしてていいんですか?」

「・・・」

「え?」

「・・・落ち着けない。って。一人じゃどうにもソワソワして。・・・部室に定期入れ、忘れてたし」

「・・・へえ・・・」

「似合わないだろ」

「いいえ? 先輩は結構わかりやすい方ですから」

「・・・ん」

「フルタイム出場する最初の試合が最後の大会で、それはもう明日なんですから。緊張して当たり前ですよ」

またコイツは、ずかずかと・・・。

「・・・プレッシャーはあるよ、俺にも。皆には、新参者で、付き合いで入部してて、気楽ってくらいに思われてるかも知れないけど」

「・・・」

「大分、面倒もかけたしな」

 綾瀬が顔を上げて、こっちを見ているのがわかる。けれど俺は手を止めずに、ボールを磨き続けた。そう数が多い訳じゃないし、手元のはどれも十分に磨き上げたけど、それでも、同じボールでも無理矢理に磨き続けた。

 

 

 

○      ○

 

 

 

「先輩!」

「!」

 視線の先の床にいきなりボールが叩きつけられ、バウンドして顔面に飛び込んできた。俺は何とか受け止め、さすがに非難する。

「お前っ、下向いてるからってそんな投げ方あるか!」

「フロアで隙を見せるから悪いんです」

「ここは関ヶ原か」

「戦場と言えば関ヶ原ですか、先輩。大学に行くんなら桶狭間くらいは言えるようになりましょう。バスケットなだけに」

 凄いうざったい。

「下半身で距離、上半身で角度な・・・」

「そうです。次エアボールだったりしたら、いよいよ承知しませんから」

「ん・・・」

 腰を沈め、ボールに力を込める。徐々に抜きながら膝を伸ばし、曲げた身体を起こす。指先で送るようにボールを放る。

 二人で見上げる。シュートはさっきより高い弧を描き、今度はリングに吸い込まれた。水面に小石を落としたように、白いネットがパシャリと跳ねる。

 そのままようやくまっすぐに床へ落ちたボールを見て、綾瀬と目が合う。

「・・・ナイッシュー」

 笑顔と事務的な決まり文句に、頷いて応える。

「バックボードに当てずに入れるなんて、相変わらずというかなんというか。

 ・・・先輩?」

 数歩、動く。ゴールから遠ざかり、角度もずらす。3点カウントとなる楕円のラインの際で、ギリギリ2点のカウントとなる位置。

 さっき体育館に入ったとき、綾瀬が居た場所。

 そこに立ち、目を閉じる。

 

 声援。

 制服のままで、バスケットシューズどころか靴下で、勿論味方も相手もいなくて。

それでもあの日のあの時間を一瞬で思い描けてしまうのは、前日も後日も、ずっとあの日のことだけを考えていたからか。

 そっと腕を持ち上げる。

何も言わず、綾瀬はパスをくれた。目を開き、朱色のリングを見る。

 どうしてあの時あのシュートが入らなかったのか、今になってわかった気がした。

 いつものように、ゴールの下で彼女が見ていてくれなかったからだ。

 

 ボールを掲げ、おそらく最後のシュートを放つ。

 いつも以上に、力を込めてしまったかもしれない。

 伝えるのなら、外す訳にはいかないというのに。