朝、パンを焼く。

こうして黄色い匂いを漂わせるのが、彼女を起こす一番の手だ。

やはり彼女は、くたくたのトレーナーを着て、

顔も洗わずに僕の立つキッチンにやってきた。

 

「おはよう」

僕はこれを彼女に言うのがすきだ。

「ん」

彼女はそんな事なんか知らない。

多分それを知ったとしても、彼女は相変わらず僕の楽しみに対して

1音の返事をするのだろう。

 

「今日は、どうなの。」

体調の方は、という言葉を、わざと音にはしない。

どこまで彼女が僕の心をわかってくれるか試してみたんだ。

「何が。」

ぼろぼろと、パンくずをとこぼしながら食べている。

僕は心のすみっこで、やっぱりね、とか思いながら、

パンくずを拾い、彼女の前にくず受けの皿を置く。

「体調。昨日も顔色悪かったって、みなとさんから電話あったよ。」

彼女は、本当にからだが弱い。

みなとさんという人は、彼女が働いているガラス工房「みなと」のオーナーさんで、

心配症の僕の為にも、よく彼女の悪い日なんかは電話を入れてくれるのだ。

 

僕が自慢するのもおかしな話だけれど、

彼女はとても綺麗なガラス細工の置物をつくる。

例えば、小さな動植物とか、よく分からないけど面白い形のオブジェとか。

 

そんな訳で彼女の仕事場はガラスを溶かしたりなんかするので

物凄く暑い。

だからか、彼女はとても細いし、弱い。

 

「朝ごはん抜いたからちゃうかな、わたし朝だけはしっかり派やし。」

「何でいきなり派閥にわけたの。他にどんな派閥があるの。」

「もう8時なるやん、これ、冷蔵庫入れといて。」

よく、僕の質問は無視される。

別に、いいよ。拗ねてないけど。

彼女はぐっすり派だから、朝は特に忙しいんだ。

 

僕は手作りの野菜ジュースを冷蔵庫につっこんでTVをつける。星座占い。

「夕ちゃーん、しし座、11位!」

洗面所にいる彼女に、報告。

中途半端じゃーとか、何か、そんなことを叫んでる。

よく、聞こえない。僕は耳が悪いのだ。

そういえば彼女は、12位より11位が嫌いらしい。

12位だと、ラッキーパーソンとか、

幸運のためにこれをもちましょうみたいなのが出るけど、

11位は改善法もなくただただ11番目に運が悪い一日を味わわなくてはならないからだそうだ。

僕も彼女も占いなんか所詮当たらないと言っておきながら、

やっぱり毎朝チェックを入れているあたり、とても人間らしくて笑ってしまう。

ちなみにうお座の僕は1位。なんとなく黙っておく。

 

彼女が長の小屋をいじっている。

出勤の報告だろう。

長というのは僕らが飼ってるフェレットの名前で、オサという。

他のフェッレットと比べて顎あたりの毛がちょっぴり長く、

長老っぽいという彼女の言葉から、長。

よく分からない流れだけど、なんだかこういうのは嫌いじゃないなと思う。

 

彼女の声がしなくなったなと思っていたら、

知らない間にもう出て行っていた。

 

いってらっしゃい。気をつけて。

 

 

 

 

 

昼、天気がいいので絵を描く。

僕の趣味はこれくらいしかない。

1つしかないから、そのぶん、すきになろうと思う。

 

クレヨンがすきだ。

なんだかとっても可愛いものだから。

手の上でころころさせているだけで楽しい。

いつか、それをしばらく続けているのを見た彼女が笑い転げていたのを思い出す。

僕が何が面白いのか分からず、困っていたら

だってあまりにも平和な光景だったから、と彼女は笑いながら説明した。

今でも彼女は僕がクレヨンを持っていると笑う。

別に嫌だからじゃないけど、

それから僕はこうして彼女のいない昼間に絵を描くことにしている。

 

我ながらうまく描けたと思う。

なんだか今日はいいことがありそうだ。

そんなことを考えているうちに、沸かしていたやかんのお茶が吹きこぼれた。

少しテンションが下がる。

 

お布団を干しとこう。

きっと彼女も喜ぶ。

 

 

 

夕方から夜にかけて

 

 

夕方、彼女が帰ってきた。

ちょうど長と遊んでいたところなので、2人(1人と1匹)でお出迎え。

 

けど、彼女は「ただいま」と言ったきり、お風呂でもご飯でもなく部屋に入ってしまった。

いつもの彼女なら、ムツゴロウさんの真似でもしながら、

長とじゃれ合い、僕にやれご飯だ風呂だと言って、大きな口で笑う。

どうしたんだろう。

 

夜が更けて、僕は仕方なくひとりでご飯もお風呂も済ませて

干したての布団を敷いた。

落ち着かない。

長が、僕の足元をぐるぐる回っている。

ご飯をやっていなかった。ぼーっとしててごめんな。

長が食事を終えても、彼女は部屋から出てこなかった。

 

やっぱり気になって、様子を見に行くことにした。

ノックをしてみたけど、返事がない。

ゆっくりドアノブを回して、ドアを押す。

まるで部屋全体が水槽なんじゃないかというほどに、ドアは重く感じられた。

廊下の光が、部屋に差し込む。

そこに彼女の姿は見つけられない。

おかしいな、と思って、部屋の照明をつけると、

ベッドと机ん隙間に、座り込む彼女がいた。

 

「夕ちゃん」

 

当然のように返事はなくて、

せまい肩は明らかに僕に近づかないでと言っていた。

だけど僕は彼女の前に座り、もう一度、声が聞きたくて、言う。

 

「夕ちゃん、」

 

こういうことは、前にもあった。

そういうとき、僕は彼女を分からなく思ってしまう。

確かにからだは弱いけど、彼女は強いひとだ。

いや、本当は、弱いのかもしれない。

いま、すがるような想いでいて、

僕に言って欲しい言葉を、何度も自分の胸で繰り返しているのかもしれない。

 

でも、僕はやっぱり彼女をわからないでいるままだから

確かなことを、確かだと思えるひとつのことを

繰り返す。

 

「夕ちゃん、」

 

続きは、その先にある言葉は、

わざと音にはしない。どこまで彼女が僕の心を、

分かってくれるか試してみたんだ。