…雨音、
雨音、
雨音…。
聴いていて、雨音ってつまり、雨の声なんだと気づく。
風で空からこぼれた雨の、土へと帰るよろこびの声。
だったら素直に「ただいま」って言えばいいと思う。「ぽちゃん」て。
でも、雨が粒々帰ってくる度に「おかえり」って言うのも大変だから、きっとこれでいい。
そんなこと考えてしまうから、私は目を開けた。
雨徃一期
窓の外。
見えるのは、雨雲色の空と、ここ数日を休み休み降り続いてる雨と、道路を挟んでお向かいさん家。あと前髪をおでこで半々に分けた、頬杖で支えられてる私の頭もぼんやりと。
「…。」
なんだか今日の雨粒って、じょうろから注がれてるみたく丸っこい。だからか、この雨はこの町の花に水をあげるために降ってるようにも見える。
それもいい。思考を終わらせ、読書に戻ることにする。
音楽を流す趣味を持たない私の部屋には、か細い雨々の断末魔と、頁をめくる音だけが聞こえてる。
「…。」
手元の本に注意を向けていても、雨の声は、呼びかけるように私へ届く。
…「ぽた。」が一つ一つの雨の声なら、連なり重なる「ざー。」は、雨の話し声? 歌声?
ぱたん!
栞も挟まず、本を閉じる。
笑ってしまう。読んでる小説に綴られたこの縦書きの文章さえ、滴る雨の筋に見えてしまった。
「…ふぅ。」
座ったまま後ろに体を仰け反る。椅子の前足が浮かぶ。
どうして今日の雨はこんなにも当てつけがましい? 「ただいま。」を無視されてるくらいで。
学習机に置いていたマグカップを口元に付けて、ぐいっと傾ける。何の味もしない。あれ、と思って覗くと、中身は空っぽだった。
底に残った微量の苺オーレが数滴流れて、ようやく私の口に触れる。ぬるくて甘い。それで終わりだ。いくら待っても、ピンク色の液体は降ってこない。
また作るか。
私はマグカップを手に部屋から出、木で組まれた急傾斜な階段をとんとんと下りる。
ウチの一階は駄菓子屋だ。祖母が始めた小さな店で、元々土間だった場所に、お菓子の棚が並んでいる。
まずは台所でやかんを火にかけて、お湯が沸くその間にスリッパを履いて売り場に下りる。
苺オーレの粉末を置いている棚に向かおうとしたとき、店の出入り口の、閉じられたガラス戸の向こうに、男の子がひとり立っていることに気づいた。
「…。」
ウチの軒下で雨宿りしているらしい。こっちに背を向けて、降り注ぐ雨を眺めている。
時々、見かける人だ。高校生くらいの、どこにでもいそうな、事実こんなところにいる男の子。
よくこの辺を自転車で通るのを見るけど、なんで雨の日まで。家が近所とも思えないし。
「…。」
一目でわかる。ずぶ濡れ。足元も、滴った雨水でびちゃびちゃ。でもそんな彼の後ろ姿からは、「困ったねぇ」と、どこか他人事のような、軽い雰囲気が感じられる。
とはいえ、さすがに無視する気になれない。私は苺オーレともう一つ、はちみつ味のくず湯を棚から取って、出入り口に近づいた。
ガラス戸をノックする。ノックって、外から内に呼びかけるものなんだとばかり思ってたけど、逆もありなんだ。
いらんこと考えながらごんごん叩くけど、雨音のせいか、男の子はこっちに気づかなかった。少し憮然とした気持ちでガラス戸を開ける。
「あの。」
ずっと黙ってたせいか、喉が思いのほか張り切って大きな声が出た。男の子が驚いてこっちに振り返る。
「…はいっ。」
えーと。
「よかったら、雨宿りしていきませんか。」
「え、あの…もう、させてもらってますけど…。」
「いえ、中でどうぞ。上がってもらって結構ですから。」
言うだけ言って、私は引っ込んだ。親切心の割には愛想がないと、自分でも思う。
男の子はしばらく迷って、開けっ放しのガラス戸に困って、やがておずおずと入ってきた。
「お邪魔、します…。」
「どうぞ。」
私はさっさとスリッパを脱いで板間に上がり、洗面所に向かう。
バスタオルを手に戻ると、彼は土間でお菓子の並ぶ棚をぼうっと眺めていた。
「どうぞ。タオル。…どうぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
それを渡して台所に行くと、やかんが滾っていた。
苺オーレとくず湯の粉末をそれぞれマグカップにあけて、お湯を注ぐ。
そしてスプーンでかき混ぜてるときに気づいた。
「…あっ、」
私のカップに、くず湯を作ってしまっていた。
慌てて見れば、新しく出した白いマグカップに、苺オーレが湯気を立ててくるくると回っている。
「あぁー…。」
私が使った、しかも女の子もののキャラクターが描かれたカップを出すわけにもいかないし、いまさら中身を交換するわけにもいかない。
しかたがない。彼には苺オーレを飲んでもらおう。
「…飲み物どうぞ。」
「あ、すみません。どうもありがとうございます。」
畳が濡れることを気遣ってか、彼は土間の縁に座り、座敷へ上がろうとはしない。ので、私も一メートル近く離れて正座で座った。
ピンク色の苺オーレを渡す。このとき自分のカップの中身を彼に見られないように注意した。男子高校生であろう人間に苺オーレを出しておきながら自分は渋いくず湯を飲むなどというのは隠しておきたい。
彼は頭を下げつつ受け取って、ゆっくり口に含んだ。
「あぁ、生き返りました。」
それはよかった。相変わらず蝋人形みたいに見えますが。
「そこの自販機で何か買おうと思ったんですけど、温かいのがなかったんで。」
「あぁ…ですか。」
つまらん返答をすると、自分でも呆れてしまう。性格だから仕方ないとはいえ。
けれど彼は気にした風もなく、カップをぐいぐい傾けている。真っピンクの苺オーレを。味など気にしていないのか、あるいは甘党なのか。
「…。」
こうして、自分のカップを啜りながら斜めに見てると、私の学校の男子とは、雰囲気がまったく違うと思う。謙虚というより、物腰がやわらかい感じ。
私が思うに、こういう人が多分、頭がいいっていうんだろう。
恐縮ばっかりで遠慮だけ繰り返す人をよく見るが、そうされると相手も疲れてしまうだろう。けど彼のようにそこそこ落ち着いた様子を見せてくれれば、気が楽だ。図々しいでも無遠慮でもなく、ただ嬉しそうに礼を言ってくれる人。
しかし、私なんかに敬語を使ってくるとは思わなかった。まぁ雨宿りの身分だからと自戒しているんだろうか。
「いまどき、珍しいですよね。」
「え。」
唐突に話しかけられたのでばかっぽい声で返事してしまった。
「こういう、駄菓子屋さん、って。」
お菓子が並ぶ棚の列を眺めながら、彼が言う。
…私もなんとなく、それらを見る。薄暗い売り場で、ポテトチップスの袋がテカテカしてる。ねじったチューブに詰められたゼリーが雨空の色を透して、カラフルな影を映してる。
「家にお菓子がいっぱいあるんだから、お友達から羨ましがられるんじゃないですか。」
少し冗談ぽくそう言われる。
はちみつくず湯で温まった私の喉から、「あぁ、」と「あはは、」の間くらいの声が出た。またしても間抜けな。
「最初は私もはしゃいでましたけど、もうすっかり慣れちゃいました。」
答えながらカップを置き、スリッパを履く。
「なにかひとつ開けましょうか。どれがいいですか?」
「え、いいですよ。」
「私も食べたいんです。選んでください。」
「あ、えっとじゃあ…、」
相変わらずやけに怖い私の口調に怯んだ様子もなく、彼は棚を見回す。…見回して探すほど、この店にめぼしいものはないが。
「…プリッツ、で。」
「ローストバターとサラダとトマトがありますが。」
「あ、じゃ、あのトマトが。」
「はい。」
箱を開ける。4袋入りなので、2袋ずつだ。
「ありがとうございます。でも、勝手にお店のもの食べちゃっていいんですか?」
「私のおやつってことで許可もらってますから。どうせ売り上げの勘定もしてないし。」
「そうなんですか。」
私がビリッ、と音を立てて袋を裂くと、もう少し静かに、彼も倣った。それはなんだか恥ずかしかった。
雨が跳ねる地面をガラス戸越しに眺めながら、しょっぱいプリッツを齧る。トマト味は、本当は少し苦手。トマトは好きだけど、似せてあるのは好きじゃない。もちろん苺オーレは例外。あれは美味しいものだ。
ふいに、続いていたドライヤーの音が止んだので隣を見た。彼が礼を言いながら、丁寧にコードを巻いてドライヤーを私に返す。いくら六月とは言え、タオルで拭いただけはよくないと気付き先ほど渡したもの。結構旧式で、口でフウフウ吹いているように風は弱い。そのため乾くのに時間が掛かった。
受け取って畳に置き、座り直す。
「…。」
また、雨の音だけに戻る。スリッパを履いたままの足をぶらぶらさせる。
少しぬるくなっただろう苺オーレに、彼が口をつける。
何か言おうとした私は、それを少し待って、
「…降りますね。」と釣り人のようなことを言った。
「ですね。」と応えた彼は、「雨季ですしね。」と付け足した。
そういえば。
「あの。よくここの道通られますよね。通学路…じゃないですよね?」
「あぁ、えーと…。」
少し困ったように笑い、
「まぁ、会いに行く相手がいまして。」
「こんな雨の日にでも、ですか。…恋人さん?」
そして目を丸くする。
「いいえ。とんでもない。」
「ですよね。」
「…。」
「あっ、いえ、この道の先は小学校くらいしかないから、そんなはずないなと。」
「…あはは。」
若干苦い笑顔だ。
語弊とはいえ何だか失礼だったので、慌てて話を変える。
「学校と言えば、私、不登校なんです。」
「え、そうなんですか?」
「…。」
とっさにとはいえ愉快な話が出来ないなぁと自分で少し落ち込みながら、入った学校にあまり馴染めないことを説明する。自分の不幸話で失礼を補うというのも、何か苦々しいけれど。
なるほど、とどこか感慨深げに、彼は頷いた。なんとなくだけど聞く様子から、この人はきっとどんな話にでも例えばくだらない冗談にでも、一度は真剣に耳を傾けてくれるのだろうな、と思った。
「でもまあ、僕も結構サボったりはしますよ。」
「…あんまり、そうは見えませんが。」
「例えば朝、かったるいから一緒に遅刻しようって友達に付き合って昼休みに登校して、別の友達に、かったるいから午後抜け出そうって誘われて、昼の掃除だけしてそのままぶらぶら帰っちゃったりとか。」
「…。」
指を伸ばし、手の甲を振って向ける。だめだろってツッコミのつもりだったが、動きが小さかったせいか、彼には何の動作かわからないみたいだった。
「…握手? ですか?」
冗談ぽく自分も手を広げて見せるので、私はつい頷いた。
いいえツッコミです、なんて言いにくいし、ここで手を引っ込めるのもなんかまた失礼だと思ったから。
「…。」
よくわからないタイミングで握手を交わす。「うちらサボり者同士、よろしく。」みたいな感じになる。
プリッツの塩がついたままの私の指を、まだ温かくない彼の手が握った。
「…。」
握手を終えて、また正面に向き直る。
少し雨音が弱まった。
プリッツの二袋目もすっかり食べ終え、互いにお気に入りの古い映画などを紹介し終わる頃。
「…止みそう、ですね。」
彼がぽつりと言った。軒先の空を見、本当だ、と応える。
カップをゆっくり飲み干して、彼は立ち上がった。
「長々と居座ってすみません。どうもご馳走様でした。」
そう頭を下げ礼を言われても、私は「いえいえ。」を繰り返すことしか出来ない。丁寧に折り畳まれたタオルを受け取り、見送るべくガラス戸をくぐる。
ほとんど雨が止み、空は真っ白になっていた。空気は湿っていて、強くはないが風もある。
声、かけてよかった。あのまま放置してたら、絶対風邪ひいちゃってただろうなと思う。
彼は店先に置いていた自転車のスタンドを外し、私を振り返った。
「じゃあ、失礼します。」
「はい。また今度。」
「たまには、学校も覗いてみるといいですよ。せっかく小学校、近いんだから。」
「…まぁ努力します。」
返事に笑って、じゃあ、と手を振る。私も返した。
彼が道を曲がっていくまで見送って、ふぅ、と息をつく。
湿ったタオルを手に、家へ戻ろうとして、
「あ、」
屋根から一滴、雨粒が落ちた。目の前を通って、「ぽちゃ。」、と歩道に砕けた。
なんと言うべきかを思い出し、
「おかえり。」
言って、振り返った。