※ 中世風味、欧州童話チック。

   暗調には変わりないものの、全く雰囲気が異なります。ご注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 序文

 

 

 

 一人の女性が、ちくちくとお裁縫をしていました。

 その女性は気品を感じさせる高貴なドレスを身に纏い、そしてそれに敵う美貌の持ち主でしたが、今だけは少しはしたなく、黒檀の窓枠に腰掛けていました。

 どうやら彼女は今、身篭っているようです。ほっそりとした身体の腹部だけが、ふわりと膨らんでいました。慈愛に満ちたその表情からして、これから生まれる我が子に与える為、縫い上げているものなのでしょう。

 時折手を休めては、外の雪景色を眺めていました。ひとたび迷えば助かりそうにない吹雪の原野も、暖炉の設えられた部屋から見れば綺麗なものです。

「――っ、」

 その風景に見惚れているうちに手元が覚束無くなり、つい彼女は自分の手を針で刺してしまいました。

「……あ、」

 皮膚から覗いた血がぷくりと膨らみ、黒檀の窓枠へと滴り落ちました。けれども彼女はそれをぼんやりと眺めるばかりで、傷を押さえようともしません。また、見惚れていたのです。

 黒檀の上に落ちた血の雫は、窓の隙間から入り込んだ粉雪と溶け合って滲み、まるで宵闇に咲く鮮やかな花のように見えました。

 漆黒と、純白と、深紅。これらの色たちをもし、腹に宿すこの子が持って生まれてきたなら、どんなに美しいことだろう。

 ふと願掛けのつもりで、彼女は手元の縫い物をそっと被せ、その色たちを染み込ませるのでした。

 

 

 

 

 

 

無題#02

 

 

 

1 ベルトーチスカ

 

 

 

 草原にて、なだらかな丘陵に立つ。

 何にも遮られずに吹きゆく秋風を浴びていると、いつの間にか凝り固まっていた胸の内さえ解されていく心地がする。

 一人の青年が歌っていた。この国の者では発声どころか聴解さえ侭ならない、滅びた原住民の失われた言語。それらが綴る旋律が、掻き消えてはまた紡がれてゆく。

 時折薄く開く瞼に収まる瞳は灰色で、向かい風に踊る髪も埃を被ったよう淡く暗い。目を引かぬ容姿の青年だった。

 彼の前に広がるのは紛れもない草原だが、その歌は遠い海を想う、郷愁の音色を奏でていた。寄り添う海鳥の声のひとつも無いが、憚らずに彼は風が薙ぐ草に波を見、歌う。そして原野とてそれを許すよう、ただ静かに歌声を包んでいた。

 潮が注ぐよう、歌は佳境へ近づいていく。が、直前に大きく息を吸った割に、その歌声はさほど伸びずに途絶えた。唐突に、彼が背後へ振り返ったからだ。

「あ……。」

 歌っていた余韻からか、まだ滑らかな声が漏れる。

 果たしてその背後には、一人の少女が立っていた。彼女もまた目を丸くしていて、呆け顔が見合った。

 ――美しい。

 何よりも先んじて、それを思う。

 漆に浸したように黒く艶やかな髪と、血に口づけたように紅く鮮やかな唇と、雪に塗れたように白く滑らかな肌。彼女を見るたび、その色たちが飾る美しさに見入ってしまう。

「ん……、後ろから驚かそうと思ったのですが。」

 ばつが悪そうに少女は首を傾げ、舌先を覗かせる。

 絹の服を纏う優雅な容姿には似合わない、まるで町娘のような仕草だったが、彼女自身がまだ十歳という幼さなのだから、それはさほど不自然でもない。

「……供も連れずに、このような場所へ来られてはなりません。」

 努めて事務的にそう諭すが、少女はすぐに首を振った。

「イスベルは、すぐにそういうことを言う。」

 名を呼ばれ、青年はとりあえず頭を下げる。

「は。しかし私は近衛です。貴女を城までお送りせねば。」

「つまらないから抜け出してきたの。あなたがお庭に出るのなら、私も誘ってくれないとこまります。」

 そう言われる方が、そして勝手に城から抜け出される方が、遥かに困ってしまう。今頃城内では騒ぎになっているだろう。「王女がいない、王女がいない。」と。

「気にせずどうぞ。それとも私がじゃまですか。」

 手頃な大きさの石に腰掛け、少女――この国の王女、ベルトーチスカは平然と言った。普段彼女の警護を務める近衛兵イスベルは、一層困り顔になる。

「姫様、城へ帰りましょう。私の馬に乗ればすぐです。」

 ふうん、と彼女は腕を組む。

「やっとの思いで抜け出したお城に、もう連れ戻すとおっしゃるのね。イスベルは私をいじめるのが楽しいのですか?」

 僅か数年で隣国全てを滅ぼすような国の姫君を、誰が苛めるというのだろう。

 イスベルは灰色の目を伏せた。

「では、どうされると……。」

 ベルトーチスカは、そうですね、と考える素振りを見せた。だが内心では既に定めているはずだ。案の定さほど時間をかけず、すぐに顔を上げる。

「歌の続きが聴きたいです。」

「……姫、」

「私しかいないんだから、いいじゃないですか。さっきだって、ほんとうに驚かそうなんて思ってなくて、ただ近くで聴きたかったから……。」

「私の国の言葉は、お父上様もお母上様も、いい顔をされません。お咎めを受けてしまいます。」

「むう……。」

 ならばそれを使っていたことを言いつける、などという狡賢さを彼女が身につけていないのが、せめてもの救いか。

「さ、姫。城へ帰りましょう。皆が心配しています。」

「……だって、せっかく……、」

 ベルトーチスカは切なそうに視線を落とす。髪と肌の相対する色の狭間にて、赤い口元がその形一つで美しさの印象を変えた。

「っ、」

 こうも見目麗しい少女が、自分の言動一つでこうも素直に落ち込んでしまう。それは今日のような休暇以外、四六時中彼女に張り付いているはずのイスベルをさえ、たじろがせた。

「……少しだけ、馬を走らせようかと思うのですが。」

「ほんとう?」

 そして途端に、目を輝かせる。

「……はい。」

 どこかで敗北感を抱きつつ、イスベルは近くの川で水を飲んでいるはずの愛馬を呼ぶ。

この幼い王女は、これから様々な感情を得ていくだろう。そして、それらを映す表情のすべてが美しいのだろう。

 小走りで駆け寄ってくる馬を笑顔で歓迎しながら、待ちきれないように身を弾ませる彼女を見て、イスベルはもう一度目を伏せた。

 

 

 

 

 いくら彼女自身に望まれたとは言え、王女を同じ馬に乗せしかも整地されていない草原を走らせるなど、露見すれば鞭打ち程度では済まされない。

 意に介さずというよりその理屈を汲めないであろうベルトーチスカは、気持ち良さそうに髪を靡かせていた。時折歓声を漏らす彼女をほとんど後ろから抱きかかえるようにして、イスベルは手綱を握っている。

 庭と呼ぶにはあまりに広い敷地の平原の中、まだ少し距離のある居城が聳えている。こちらは城下町と反対側の裏庭≠ネので、見えるのはその背中部分だ。

「姫、寒くは?」

「だいじょうぶ。ありがとう。」

「……いえ。」

 こうしてすっかり従者然としてしまっているが、イスベルとて元は位のある血族だった。北方に隣していた小国にて、傍系ながらも王室の血統を継ぐ身だったのだ。

 それを先代からの同盟が切れるや否、すぐさま軍事力で下したのがここニフルム国の王で、つまりベルトーチスカの父だった。

 彼は他国の王族を殺さず、召抱えて興じた。捕虜になっていたイスベルを、娘の小間使いとしたのだ。

 国が滅べば、禍根でしかない自分はさっさと殺されるだろう。そう思っていただけに、鎖を解かれた際の驚愕は忘れられない。

 後に武術の心得を知られ、ようやく警戒されるかと思えば、近衛として格上げされて帯剣すら許されてしまった。万が一の反乱に備えた人質策にしては、明らかに行き過ぎている。

 よもや信用されている訳ではないだろう。度量があると言えば聞こえはいいが、危機感に欠けるどころの話でもない。

 一体あの王はどこまで見えているのか。己の権力を噛み締めたがるばかりだとしたら、長続きはすまい。齢二十にも満たぬ自分ですらそう思っているのだから、臣下の諸侯が皆感付いていない筈もない。

 そうなれば、この王女とて、

「……むずかしいお顔。」

 気付くと、ベルトーチスカが振り返ってこちらを見つめていた。一頭の馬に並んで乗っているため、息が掛かりそうに距離が近い。病的なほど鮮麗な肌と唇の色合いがはっきりと見て取れる。

「なにをお考え?」

「……いえ。」

 首を振り、曖昧に笑む。

(王妃が居られる限りは、邪推か。)

 一度俯き、イスベルは短く吼えた。

 馬が走る速度を増し、ベルトーチスカは小さく悲鳴を上げた。

 

 

 

 ほどなく城へ近付くとイスベルは素早く下馬し、手綱を引いた。ベルトーチスカは横向きに座り直して、慌ただしい門楼を眺めている。

 重く堅牢な城門が、十数人の衛兵たちによって開かれた。

「王室近衛イスベル、裏庭にてご散策を終えられた王女をお連れしました。」

 そんな理由を銘打ち、くぐっていく。石畳が、馬の足音を硬質にした。

 さらに奥で跳ね橋が下り切り、もう一つの城門が開かれる。

 同様に名目を唱えて城内へ入ると、多くの兵や女中達がわらわらと出迎えに駆け寄って来た。

「わ、おおげさ。怒られるかなあ。」

「……如何でしょう。」

 公の場であるから先ほどより距離を持った表情で、イスベルは恭しく目を伏せる。そんな彼の態度に微笑んで見せ、ベルトーチスカはひょいと馬から飛び降りた。周囲から危惧する声が上がるが、一向に構わず。

 そしてふと気付き、見上げる先へ手を振った。

「ただいま、母さま。」

 その場がさらに騒然とする。

 城郭正門へ続く階段の踊り場から、侍従を両脇に伴った女性が一人、こちらを見下ろしていた。

 黄金色の髪をティアラで留めたこの国の王妃は、娘に対し面影の似た、ただしまだ重みのある笑顔を返す。

「ええ。お帰り、ベル。」

 そして、その隣で片膝をつく青年にも目を遣る。

「貴方も、ご苦労様。折角のお休みを潰させてしまって、申し訳ないわ。」

「身に余るお言葉にて。」

 味気なく応じ、イスベルは馬を引いて下がった。

 それを見届けることなく、王妃は駆け寄ってきたベルトーチスカの背に手を添える。

「ベル、迎賓の宴はもう明日ですよ。そろそろ落ち着きなさい。」

「えへへ、はい……。」

 はにかむ彼女に、王妃も笑みを深めた。

 西で連なる山脈の向こうに、強大な軍国が存在する。明夜はその国王や重臣達を招き、交流の宴を催すこととなっていた。無論、互いに多くの思惑が入り混じるだろうが、この二大国の取り組む協定は、周辺諸国をも巻き込む大事となる。

 そしてニフルム王女であるベルトーチスカは、宴の場の華添えとして舞踊を披露する手筈となっていた。齢十歳にして国境すら越え美しさを謳われる以上、協定を有利に進めるどころか、政略結婚にさえ行き着くかも知れない。そうなれば、所詮若さの勢いばかりと揶揄されるこの国も、より確固たる国力を得ることだろう。

「あなたの為に造られた特注の靴も届いたそうですよ。今更になって、足など挫かないようにね。」

「はい、母さま。」

 呆気ないほど素直な返事に頷きを残し、王妃は城郭の内部へ引き返して行った。ベルトーチスカは母を見送り終えてから、

「イスベル、」

 後ろを振り返る。が、そこに彼の姿は無かった。

「あれ? ――あの、」

 階段を下り、門を閉じようと慌ただしく動き回っている兵の一人を呼び止める。

「イスベルはどこ?」

「おそらく、馬を舎へ帰しに向かったかと。」

「そう……。」

 無論それは当然の義務なのだが、ベルトーチスカは置いていかれた、という表情で頬を膨らませた。

 思えばいつも、彼は母の前から遠ざかろうとする。自分と居る時にも頑なな態度を崩さないイスベルだが、それでも多少の本心を垣間見せることはあった。

 けれど王妃がその場に現れると、途端に表情を閉ざしてしまう。礼に反してこそいないものの、およそ温もりなど感じさせない底冷えした眼差しとなる。

 何かあるのだろうかとは思うが、察するには難しい。増してや彼女は王女であり、理解出来ぬ物事には可憐に首さえ傾げれば許される身分に居る。

(あのふたりが仲良くなれば、とっても素敵なのにな。)

 そんなことをのんびり考えていると、突然腰の辺りを締め付けられた。

「わ?」

 見れば、先ほど出迎えに飛び出してきた侍女の一人が、跪いてベルトーチスカのスカートを抱き竦めている。

 本来なら休暇中のイスベルに代わり彼女に伴っているべきで、そしてまんまと取り逃がしてしまった侍女だった。

「あ……、ごめんねリタ。じゃあ今度は私が鬼になるから、あなたが隠れてよ。ね?」

「そういうことではありません!」

 その侍女が、ほとんど泣き叫ぶような声を上げる。

「? どうしたの。私がこっそりお庭に出るなんて、初めてじゃないのに。」

「……お願いですから、今は大人しくされてください。王女に何かあって明日に支障を来たすことでもあれば、私は首を刎ねられます。」

「だいじょうぶよ。でも私が踊っただけで、父さまたちのお話がうまくいくのかな。」

 見当違いながらもっともな疑問を洩らし、ベルトーチスカは侍女の背中を撫でた。小さな手の感触を感じながら、彼女は泣き出しそうなままの顔を振る。

 重く堅牢な城門が、衛兵たちによって漸く閉じられた。

 

 

 

 

 イスベルは、愛馬を濡らした布で丁寧に拭っていた。時折横顔に微笑みかけては、毛並みも整えていく。

 付近には彼以外にも同様に馬の世話を行っている者がいるが、誰もイスベルに話しかけたりはしない。無論その過去によるものもあろうが、そもそも王族に張り付き私室すら出入りする近衛とは城兵の中でも特殊な存在であり、気軽に会話を交わせるものではない。

 先刻川を泳がせたので、手入れはそう時間を取らずに終わった。イスベルは自身の手も洗い、幾重の視線に構うことなく兵舎へ入った。

 

 食堂で早めの夕食を済ませ、舎内に割り当てられた自室へ向かう。

 とは言っても彼は普段、いつ何時であろうと主の元へ駆けつけられるよう王宮の衛兵控え室で寝起きしているため、休暇にしか戻ることのない部屋ではあるのだが。

(さすがに姫も、今日は大人しくしているだろう。となると、明日まで暇か。)

 たまには暇も悪くない。長い廊下を歩きながら腰に佩く短剣を外し、防護服のベルトも解く。

 大体が今日は、明日の重警備に万全を期すための休暇だったのだが。結局はベルトーチスカに振り回されてしまっている。

 苦笑を零しつつ自室のドアを開くと、既に一人の青年が片方のベッドで寝転んでいた。

「……お、戻ったか。」

 頭の後ろで手を組んだまま上体を起こし、彼はこちらを視認する。

「ハシュカ。帰ってたのか?」

「ああ、ついさっきだよ。……酷え格好だな。」

「すぐに寝転ぼうと思ってたからさ。」

 短剣の鞘と脱ぎかけの防護服を両手で掲げ、そう答える。

「それにしても随分久しぶりだ。ええと、鉱山付近の開拓村を護っていたんだっけ?」

「ああ。でも辺りから原住民も獣の群もいなくなったから、お払い箱で帰って来た。また今日から、苦手な城暮らしだよ。」

 彼は陽気な口調でそう言った。編み込んで束にした髪を後頭部で結っていて、瞳は浅黒い。白い歯を見せ笑うと、随分涼やかな印象を受ける。

 彼、ハシュカは元々近辺の平原に暮らしていた狩猟民で、やはりここニフルムに恭順を強いられた部族の出身だ。一方的な武力制定の後、腕の立つ狩人はこの国の弓兵として取り込まれている。

 一応ここはハシュカとの相部屋なのだが、遠征ばかり課せられる彼が戻って来る頻度は、イスベルよりもさらに少ない。

「明日のことは?」

「聞いてるよ。夜から国交の祝宴だろ。城門の見張りと警護を任された。……お前は相変わらずか?」

「ああ。」

「大変だな。お姫様に引き回されて。」

 同じく、力の抜けた笑みを返す。

「文句は言えないよ、こうして生き延びてるんだから。……それより久しぶりにどうだ。それとも今日は疲れてるか?」

 放ろうとしていた短剣を持ち上げて見せると、会話も寝転んだまま続けていたハシュカは勢いをつけて跳ね起きた。

「少しはまともになったんだろうな。」

 そして対照的に、野性を帯びた笑みを返した。

 

 

 

 二人して兵舎の訓練場へと赴く。じきに夕食の時刻を迎えるため、先に使用していたほとんどの兵たちと入れ違う形となった。

「存分にやれそうだ。」

 広く空いた室内を軽く見回して、イスベルは立て掛けられていた模造の剣を選ぶ。ハシュカは小振りな弓と矢筒を手にした。どちらも木製で、刃先は砂を詰めた麻袋で覆われている。訓練時の負傷を避けるためだが、それでもまともに受ければ痣や打撲は免れない。

「明日があるから軽めにな。」

 言いつつ、既に木矢をつがえている。頷き、イスベルも構えた。

 傾いた日の光が照らす中、互いに向き合って挙動を見据える。イスベルは相手の指先と目を、ハシュカは相手の足元と目を。

「……城に戻ってきて早々、蝋燭の無駄遣いで嫌味を言われたくないぞ。」

 長い対峙の末にそう零される。イスベルは僅かに笑い、大きく一歩を踏み出した。

 即座に放たれた矢を、剣身でいなすように払う。矢は軌道をずらされ、離れた床に落ちた。

 その音を聞くより早くイスベルは構え直し、勢いを乗せて突く。ハシュカは屈んで避けた。同時に体を捻り、相手に背を見せる。

「っ。」

 瞬間、イスベルは打ち込もうとした追撃を止め、後ろに跳んだ。死角で繰り出された下段の回し蹴りから逃れる。

 彼の足元を掬えずに空振ったハシュカだが、そのまま旋回し正面へ向き直る頃には既に二本目の矢をつがえ、狙いを定めていた。

 折角詰めた間合いを外されたことに、歯噛みする間もない。

「うっ。」

 矢はイスベルの左肩に当たった。剣で弾くべく構えはしたが先ほどよりも速く、咄嗟には捌けなかった。

「まだ浅い。」

 ハシュカが小声で呟き、容赦なく畳み掛ける。イスベルは追い打ちの矢を横へ転がって避けると、そのまま素早く前方へ踏み込んだ。

 番えかけた四発目の矢を放り捨て、ハシュカは弓を真横に構えた。木剣が叩きつけられ、腕が痺れる。

(相変わらずの馬鹿力め。)

 顔をしかめた彼は次なる斬撃を、弓の端部である姫反りで受けた。斜めに力を逃がされ、イスベルの身体が一瞬、重心を失う。

「う、あっ?」

 襟を掴まれた次の瞬間には、背中から床に叩きつけられていた。

「ここまでだな。」

 彼を投げ飛ばしたハシュカが、悠然と向けていた弓を下ろす。対してイスベルは、倒れたままでも木剣を手放していない。

「感心するけどな。訓練中は素直に武器を捨てたほうが、余計な怪我しないぞ。」

 呆れた口調でそう付け加えるが、イスベルはすぐに起き上がった。

「まだだ。」

「……。」

 ただ壁を穿いただけの窓から外を一瞥し、ハシュカは溜め息を吐く。

「結局、嫌味は避けられんか。」

 そして再び構え応えた。

 

 

 

 

 王宮にて。

 こちらは隅々まで豪奢に飾り尽くしてあり、下層とは世界が違うと言わんばかりの雅やかさだった。

 王妃は広い私室を一直線に横切り、最奥の取っ手を引く。するとまるで扉のように、薄い壁が左右に分かれた。

 正面に立つ王妃の上半身を映す、大きな鏡が現れた。左右の枠は、背を向けて腰掛ける天使と悪魔の彫刻で飾られている。

「――起きなさい。」

……。

……。

 左枠の天使像が、右枠の悪魔像が、ゆっくりと目を開けた。横顔なので双方一つずつの瞳は紅く、ルビーに似た輝きだった。

「この世で誰より美しいのは誰? ……答えて。」

 俯き、幽鬼染みた表情で王妃が問う。左右の天使と悪魔が、彼女を見た。

それは貴女だ。

貴女がそうだ。

 彫り込まれた無骨な唇たちが、滑らかに動いてそう答える。天使の像は高く澄み、悪魔の像は低く濁った声。

 王妃は何度も繰り返し頷いた。

「そう、そうよね。私、私が最も、美しい……。」

それを幾度と確かめまだ気が済まぬ、哀れな女だ。

それを失えず乙女の生き血を捧げる、愚かな女だ。

「いいのよ……。純潔だけが取り得の下女なんて、私の美貌のため死ねれば本望でしょう。」

嬉々と説く執念か。

恍惚と語る狂気か。

 それから王妃は、鏡に映る自分に魅入る。それぞれの彫像は、話が終わったと察したのか再び目を閉じた。

「……ああ……。」

 眠る天使と悪魔の間に浮かぶ自分の顔を確かめるよう両手で包み、彼女は鏡を介して長い時間を見つめ合う。

 

 

 

2 ダンスパーティ

 

 

 

 明くる日は、朝から城内が慌ただしかった。宵にもてなす西の軍国を迎える準備も佳境となり、特に調理場は火の車となっている。

 対して夜通し警護を任されるイスベルとハシュカは、午前中兵舎で仮眠を取っていた。そして昼を過ぎる頃、開拓地での話もそこそこに切り上げて各々の持ち場へと向かった。

 

 昨日の手合せで痣と生傷を増やしたイスベルが、ベルトーチスカの衣裳部屋に赴きその扉を叩く。

「王室近衛イスベル、大広間にて王女の護衛を仰せ付かりました。」

 しばらく間が空いて、僅かにドアが開く。隙間からそっと侍女が顔を見せた。

「あ、イスベル殿……。」

「は。姫はまだ御召し替えでしょうか?」

「ええ……、申し訳ありませんが。新しいつくりのドレスなもので、少し手間取ってしまい。」

「分かりました。では廊下で待機しております。」

 すっかり慣れた、待ち惚けの時間を過ごすことになる。壁に飾られた絵画でもそれとなく眺めていようかと思うも、その侍女はまだ戸惑った様子で半開きのドアから離れようとしない。

「……如何されました。」

「あ、いえ……。御召し替えですので部屋にお通しするわけには。といってこちらからドアを閉めるのも失礼な気がし、」

「……!」

 右手の階段を一瞥し、イスベルは半歩下がる。

「お気遣いどうも。しかし姫の御召し替えですので、開けておくべきでは。」

「あ、それも、そうですね。ではその……今しばらくお待ちを。」

 最後はほとんど呟くように、侍女は頭を下げつつドアを閉めた。

 イスベルは同時に右を向く。階段から上がってきた数人の兵士が、同じように彼を見ていた。ただしこちらは侮蔑の眼差し。

 今閉じた扉とイスベルとを見比べ、その内の一人が口を開く。

「これは、王室近衛のイスベル様。蛮族の身でありながら王宮兵士にまで上り詰めた出世頭を門前払いとは、姫君も惨い仕打ちをされる。」

 低い笑い声が漏れる。確かめるまでもないがイスベルは彼らの襟元を見た。曲線で組んだ菱形のような記章は、貴族出身者のみで構成される王直属の護衛兵である証だ。

「いえ、そのようなことは。」

 簡潔に返答し、道を譲る。

「……。」

 頭を下げたイスベルの視界で、言葉をかけた一人が矢庭に佩刀の鞘を掴んだ。そして腰に差したまま、柄をこちらへ向けてくる。

「っ。」

「それは何だ。さっさと行けてか?」

 柄頭で顎をぐいと押し上げられ、イスベルは強制的に彼の顔を直視する体勢にされた。身構える間も与えられず、一瞬顔をしかめる。

「昨日も王妃が労われたというのに、随分と生意気な態度を取っていたな。王の温情で拾われた野良犬風情が取り澄ましおって。」

「止せ。」

 兵たちの中心に居た一人が、静かに口を開いた。女性でありながらその集団の中で最も背が高く、ただ唯一外套を羽織っている。

「我らの役目は王と王妃の守衛だ。無駄話をする暇はなかろう。」

 冷厳な目で言う彼女は衛兵の末端までを預かる地位で、イスベルに取っても上官にあたる兵長だった。

「……。」

 一呼吸おいて、彼は佩刀を腰の高さに戻した。再び頭を下げるイスベルに小声で悪態をつき、その脇を擦れ違って行く。

 次々と護衛兵らが通り過ぎる中、その兵長だけが再度立ち止まった。

「お前にも言っている。血の気が多いのは構わんが、相手を間違うな。」

 イスベルは顔を上げ、ちらりと視線をずらした。彼女の部下の後ろ姿を見、慇懃に微笑みを返す。

「そう言ってくれるな。」

「私は、何も。」

「ふん。」

 声だけで笑い、彼女もまた通り過ぎて行った。

 イスベルは顎の下に指で触れ、むしろ噛んでしまった口内の方が痛むことを確かめると、今度はゆっくりと顔をしかめた。

 

 

 

 恐々と扉に縋り付いている侍女に、ベルトーチスカが問う。

「どうしたのリタ。だれだった?」

「えっ、あ……お迎えに来られた、近衛の方です。廊下で待つと。」

「イスベル? 入ってくればいいのに。」

 ドレスを着せられる過程でまだ下着姿同然のまま、平然と言った。リタと呼ばれた侍女は、困った顔でたしなめる。

「姫様、そろそろ恥じらいをお持ちください。兵とはいえ、彼とて男性です。」

 だってさあ、と頬を膨らませる。

 こうも美しくこうも無防備に育つと、すべきでない心配さえ、杞憂とは思えなくなってしまう。

「廊下は寒いんじゃないかなあ。」

「姫、このまま後ろへ向いてください。」

「はぁい。」

「……リタ。いつまでも突っ立っていないで、早くコルセットを。」

「あ、はいっ。」

 作業に勤しむ別の侍女からそう言われ、慌てて彼女もベルトーチスカの仕立てへと戻った。

 

 

 

 

「お待たせしました。」

 扉が開き、先ほどの侍女が顔を出す。

 その脇で壁のタペストリーを眺めていたイスベルは、急ぎ礼を取った。

「……?」

 しかしベルトーチスカが現れる気配がなく、不審に思って顔を上げる。変わらずその侍女が居り、困ったように笑っていた。

「あ、その……お入りください。姫様が、一度イスベル殿にご披露されたいとのことです。」

「……は、い。」

 若干気抜けしつつ、遠慮がちに入室する。

「失礼します。」

 一応呼び掛け、ヴェールの向こうに回り込む。侍女たちに囲まれた、ドレス姿のベルトーチスカと鏡越しに目が合った。

「イスベル、どう?」

 こちらへ振り返り、くるりとターンして見せる。伴って髪とスカートが浮かび、しなやかに流れ落ちた。

 その所作を目で追い、ふと気付いて慌てて膝をつき、頭を垂れる。

「大変、お似合いであられるかと。」

「えへへ、ありがとう。」

 薄く化粧を施され、少し大人びて見える彼女は満足気に笑った。

「このドレス、すごく動きやすいんだよ。」

 そう言って、踊りの一節らしい優美な動作をして見せる。袖飾りが手の動きに沿い、軌跡を描くよう揺れた。華々しくも、舞踊に適うよう工夫された流麗なドレスであるらしい。

 本心から美しく思うが、仮にも主であるし直視はしづらい。視線を落とし、ふと気付いた。

「姫様。靴は新注でなく、普段使いをお召しですね。やはり履き慣れたものがよろしいので?」

「んーん。」

 動きを止め、彼女も自身の足元を見下ろす。

「新しいのを使うよ。何か、母さまがね? 特別な靴だから、踊るときにだけ履きなさいって。」

「……そうなのですか。」

 舞踊とは直前に渡された靴でおいそれと出来るものなのだろうか。心得もないため察せないが、王妃の判断であるなら下手に口出しすべきでない。

「ああこんなにきれいなのに、いっぱい動けるなんて嬉しいな。ねえリタ、私毎日これ着たい。」

「それはどうか、お許しを。」

 着付けで憔悴しきった侍女が言い、皆が薄く笑った。

「本当はクリノリンと長いスカートでお足元を固めたいところですが……踊られる以上は仕方ありませんね。」

「いやです、あんな動きにくくて重たいの。」

 転んじゃう、と舌を出すベルトーチスカに、窓を見遣り太陽の角度を確認したイスベルが問う。

「……姫様、じきに日が暮れます。国賓が来られるまでには大広間にお連れするようにと言われましたが、如何されますか?」

「んん、もう行きます。父さまと母さまにも早く見せたい。」

「は。では参りましょう。」

 立ち上がろうとした彼に、ベルトーチスカが片手を伸ばした。

「イスベル、エスコート。」

「は?」

 呆気に取られ、目を丸くする。周りの者も口を噤んだ。

「……姫様?」

「だってダンスパーティに行くときは、おとこの人にそうして貰うって聞きました。」

「……、」

 見当違いな辞退の言葉が浮かび、首を振って頭を整理する。

「姫様、私は近衛です。」

「はい。」

 結局はその一言に収まると思い口にするも、あっさりと頷かれるだけだった。

「……、その単なる近衛が差し出がましいですが。今宵は単なるパーティという訳ではないかと存じます。」

 周辺諸国の現状を鑑みれば、当然だ。

 急速に領地を拡大したニフルムは遂にあの軍国との緩衝地帯に触れたが、今までのように力技で打ち負かせる相手ではなく。また向こうとて侵略、撤退を繰り返し国土の定まらぬ最中、今以上に敵を増やすのは避けたいはずだ。そんな折りでの、国交の場である。

 ただこれはベルトーチスカへ、そもそもニフルムに滅ぼされた国の元王族が諭すべきことでもない。慎重に言葉を選びながら、そっと彼女を見上げる。

「互いに不本意な戦をせぬためにも、今宵の機会は肝要なのです。そんな場へ王女が近衛に手を引かれ現れるのは、戯れとはいえ如何なものかと。」

 第一、先ほどの衛兵たちから即刻叩き殺されることだろう。

「あちらは過日国王すら戦死してしまい、若きご子息が王位を継いだばかり。まだ妃を持たぬその方をもてなすという意図は、貴女もお察しでありましょう。」

 再び辞儀し、付け加える。

「どうかご自覚を。」

「……ごじかくを。」

 小さな唇でぼそりと繰り返し、彼女は逸らした視線を戻す。

「べつに、わかってます。そんなお説教しなくたっていいでしょ?」

 腰に手を当て、膨れっ面をして見せた。

「……は。出過ぎた諫言を。」

「じゃあ連れてって。手は繋がなくていいから。」

「承知しました。」

 改めて立ち上がる際に、周囲の侍女たちへ素早く目を配る。皆安堵と戸惑いの混ざった表情を浮かべていた。

 このような調子では、ベルトーチスカがいかに役目を努められるかなどと望むべくもない。ただ平穏無事に宴が終わりさえすれば。そんな心境であることだろう。

 イスベルは悟られぬよう静かに息を吐き、振り返って先導の歩みを踏んだ。

 

 

 

 城壁の上で見送る夕日も、悪くはない。

 ただ、日没後も吹きさらしの楼上で延々周囲を警戒する監視兵にとっては慰めの一つでしかなく、また長い夜が始まる合図でもあるためどちらかというと切なさが勝るだろう。

 今の時期はまだ良いが、間もなく訪れる冬を想うと身震いしてしまう。

「ようやくのご到着か。」

 隣でやはり寒そうにしている同僚が呟いた。ハシュカもそっと、ツィンネ(城壁の凹凸部)の間から城内を見下ろす。

 遥か西よりやってきた馬車の一団が、足労への感謝の言葉を受けていた。こちらも向こうも非武装で、一部の将官のみが儀礼用の刀剣を携えている。

「今、矢の一発でも誤射してみろ。とんでもないことになる。」

 同僚が親指で後方を示すので、今度は反対、城下町側のツィンネから顔を出してみる。

 似たように馬で引いてきた車が並んではいるが、ただしこちらは幌でなく鉄で覆われていた。いくつもの巨大な砲身が、暗く静かに口を開けている。

「戦車か……。」

 呟きながら身を引く。

 本来城壁の監視兵が来賓をじろじろと見下ろすのは無礼であるが、禁じられるまでもなかった。あんなものを向けられると生きた心地などしない。

「方や丸腰で笑顔を浮かべ、方やいつでも撃てる大砲とは。同じ客人の一団がこの城壁の中と外で、どえらい違いだ。」

「まったく。……棚に上げてはいるけどな。」

 ハシュカも苦笑した。こちらも城壁や塔、各門の衛兵などは武装しているが、槍や弓矢など、大砲に比べればまだ可愛げがあると思える。

「軍国と謳われるだけはある、か。……そういえば、今日は王女様が舞踊をされるんだって?」

「ああ。あんな物騒な連中の前で、お可哀想に……。しかし、一目でいいから拝見したいものだ。きっと妖精のように美しいことだろう。広間の見張り連中が羨ましいな。」

「ん……そうだな。」

 歯切れの悪いハシュカに、同僚は目を丸くした。

「何だハシュカ。お前あのベルトーチスカ様が踊られるところを見たくないのか? 信じられんな。」

「いや、そういう訳じゃないが。ただ王女様に付きっきりの近衛をよく知ってるけど、どうも、そう楽しいものでもなさそうなんで。」

「ああ、例の。そいつも確か異民族……っと、済まん。」

「いいさ、あいつだって言われ慣れてる。……正直、俺からすれば緑色の目をしたあんたらこそ、そうなんだけどな。」

 一度口を押さえた同僚が、控えめな声で笑う。

「……まあ確かに、近衛兵になって息の詰まる王室に張り付いていたくは、ねえよな。」

「まったく。それよりはここで城下町を眺めていた方がいい。外側の城壁なら、草原が見られて尚のことだ。」

「差し入れの温かなアルコール一口と、番の交代を楽しみにしながら、だな。」

「違いない。」

 やがて歓迎の言葉を終えた法官に連れられ、王宮へと入っていく客人たちの後ろ姿が垣間見えた。

(さて、後はお前の番だ。何もないといいけどな。)

 宮内のイスベルを案じつつも、とりあえずは肩の荷を下ろす。

 それから付近で異常が起こらないか、薄暗くなり始めた周囲へ、改めて神経を研ぎ澄ました。

 

 

 

 

 重奏ながら涼やかな音曲が、せせらぎのよう流れていた。

 大広間は数十の人間で賑わっているが、半数以上が早足で右往左往する給仕か、出入り口や壁際で直立不動する衛兵らだった。それらの中心に置かれた長卓を、少数の貴人たちが囲っている。

 ニフルム側に国王と妃、そして王女のベルトーチスカ。向かいの軍国側には、弱冠一七歳で国を継いだ新王と、彼の母、つまり亡き先王の妃。さらにその実弟で、新王となった甥を補佐する侯爵。

 王族はその六人のみで、以降は末席に向かって特に格式の高い臣下や、名を上げた将などが続く。総勢で二十余名。

 卓に並ぶ酒食は絢爛なのだが、互いに現況や情勢など聞き出したいことは幾らでもあるため、皆々口はよく動くものの、食指はそう芳しくない。

 そんな声高になれない思惑が行き交う中、ニフルムの父娘と軍国の若き新王だけは、とても純粋に料理を堪能していた。

「……カルーリア。」

 隣の母から名でたしなめられ、彼は居住まいを正し口元を拭う。

「ああ、失礼した。大変に美味で。」

 同様、存分に食を味わっていたニフルム王も、顔を綻ばせる。

「それは良かった。貴国とは今まで交流が敵わなかったもので、果たしてお口に合うかと案じておりました。」

「何の、勿体ない。しかしこうも手の込んだ料理ですと、作法に迷いますな。特にこちらの一品は、どのように……?」

 率先して動こうとした給仕を止め、ニフルム王は自らの皿でその料理を捌いて見せた。新王カルーリアは動作を目で追いながらそれに倣う。

「なるほど、趣向を凝らしてある。」

 感心しつつ口にし、頷いた。

「旨い。」

 

 

 

 二か国の王がそう楽しげに料理をつつく様は、悪くない光景に思えた。傍目にはまるで、齢の離れた兄弟のようですらある。

 王女の背から十歩ほど下がった位置で他の衛兵と共に居並び、イスベルはそれとなく卓の気配を眺めていた。同じく反対の軍国側でも近衛たちがこちらと向かい合っているが、双方威圧感をもたらさぬよう正装に近い姿で、武具を携える者もいない。

 新王カルーリアは、栗色の髪を額で分け左右に流す、利発そうな顔立ちの青年だった。当人が若いだけあって、新勢力であるニフルムに対し先入観などは持っていないらしい。これまで交流のなかったこの国の料理に、すっかり舌鼓を打っている。

(思いの外、すんなりと来ている。)

 扱いやすいようで掴めない人柄であるニフルム王とそれなりに打ち解け合っているのだから、この宴は半ば成功しているだろう。

 が、控えたままにその場を窺っていてやがて、真に迎合すべき相手は彼ではないのではという疑念が浮かび上がった。

 

 或いは王妃もそれを感じ取ったのだろうか。彼女は新王カルーリアよりも、その叔父にあたる侯爵に注意を向けた。

 自ら兵を率い戦場へ赴いた先王と違い、彼は機知に優れた治者として名高い。どうやら今現在、カルーリアよりも実権を掌握している気配が感じられる。

「楽団が、お気に召しましたか。」

 あらぬ方を見遣っていた彼は、「んっ。」と咳払いした。

「失敬。どやつもこやつも気がそぞろで申し訳ない。目移りする家系でして。」

 声をかけた王妃も、周囲と共につい笑う。

「しかしこれほどの楽士たちを抱える国はどこにもござらん。時に奥方、あの琴は? 初めて見ます。」

「中々聴かせましょう。異邦のものですよ。東の地よりこの平原へ入り込んできた遊牧民を追討した際に。」

「道理で。音色のみならず、変わった諧調を使う。」

「……音曲にも、通じておいでのようですね。」

「とんでもごない。ご存じの通り、我々は戦にばかり従事してきたもので。雅事にはどうにも疎く。」

「いえ、私どもが道楽者なのですよ。現を抜かしているに過ぎませんわ。」

 王妃の言葉に笑みを返し、彼は視線をその隣へ、つまりベルトーチスカの座る正面に戻す。

 表面上は上品に微笑んでいるが、足元は退屈そうにぱたぱたと揺らしていた彼女は、母に膝を軽く叩かれてそれを止めた。

「しかしそれにしても……、お母上に似られ、本当に見目麗しいご息女であられる。音に聞く雪白の君=Bそう謳われるに遜色のない美しさだ。」

 侯爵がある種本題と呼べることを言い、しかし突然話題にされたベルトーチスカは目を丸くする。

 満を持して彼が口にしたという風情であり、気付けば卓の向こうにいる全員が、彼女を注視していた。

 さすがにベルトーチスカも戸惑って俯き、皆が緩やかに笑う。

「……いや、一同不躾であった。輩を代表し詫びますゆえお許しを、ベルトーチスカ殿。」

「あ、いいえ……。」

「しかし、聞けばもう幾つかの国から婚姻を求める書状が届いたと。気の早い連中がいるものだと思っておりましたが、こうして目の前にすれば、無理からぬことと見受ける。奥方も言わずもがな、まったくニフルム公が羨ましい。傾国傾城の佳人も、二人揃えば均整が取れるということですかな。」

 結局は蒸し返され赤面するが、比べて父はすっかり破顔している。

「我が君、どうやら急ぎ取り決めねば。ニフルム公のたった一人のご息女であられる以上、距離を隔てる我々は只でさえ、地の利を失している。」

 呼び掛けられたカルーリアは苦笑しつつ、軟らかに彼を制した。

「……叔父上、性急に過ぎる。王女が困っておいでだ。

 今日はここニフルム国を初めて訪れ、素晴らしい料理と奏楽でもってもてなして頂いた。この得難い日に、そう欲張るものではありますまい。」

「は……、お許しを。齢を取るとどうにも、躊躇している若者の背を押さずには居られぬもので。」

「そなたは背を押すどころか、尻を引っ叩いているよ。」

「ごもっとも。」

 

 

 

 

 和やかな雰囲気で宴が進む中、ふと奏楽が止んだ。

 扉が開き、銀製の盆を両手で持った召使が一人、恭しい所作で大広間へ姿を現す。

「……?」

 どのような趣向かと、客人たちは進み出る召使を目で追った。

 その盆に載せられているのはどうやら一対の靴であった。ただし革や布などは使われておらず、まるで水晶のように靴全体が透き通っている。

「何と精巧な。硝子細工であろうか?」

「まさか、ダイヤモンドでは……。」

 一同が口々に驚嘆や憶測の声を洩らす中、イスベルだけは眉根を寄せた。彼方此方から室内を照らす蝋燭の光を反射する様は艶めかしいが、あの材質を見紛うはずもない。

「……さて、皆様方。これより私どもの娘ベルトーチスカが、舞踊をご覧に入れます。」

 王妃がそう告げ、首を伸ばしていた客人たちは居住まいを正した。

「あの特別に拵えた靴に履き替えますので、暫くお待ち下さい。」

 目配せを受け、ベルトーチスカはそっと立ち上がった。王妃自身も続き、二人して席を離れる。

 盆を掲げた召使の待つ、広間の正面、つまりは長卓の延長線上へ。左右へ配された楽士隊と、こちらへ向く両国の貴人たち。広間全体を見渡せる位置だ。

 それらを振り返らず、ベルトーチスカは放心したようにその透明の靴に見入っていた。そして指先を伸ばし、触れた途端に慌てて引っ込める。

「この靴、氷で……。」

「ええ、綺麗でしょう? あなたのために特注した品よ。」

 母の言葉に、さらに目を見開く。

「これをはいて、踊るの?」

「そうよ。」

「……っ。」

 日頃の習慣からか、つい助けを求める目でイスベルを探してしまう。彼もまた戸惑い、離れた位置から主を窺っていた。

 様子を察し咄嗟に駈けつけようとするが、同じく居並んでいた護衛兵長に制止される。

「控えろ。」

「しかし、」

「お前が行って何とする。」

「……!」

 確かに、披露までした靴を近衛の一人が諌めて引っ込めるはずもない。それどころか、この場でニフルム側の衛兵が一方的に中央へ動くのは、礼を失するどころで済まされないだろう。

「く……。」

 ただ歯噛みしベルトーチスカを見遣る。彼女は靴へ向き直り、王妃と密やかに言葉を交わしていた。

「確かにきれいだけど……でも母さま、私こんなの履いて踊れない……。」

「何を言うの。辛いかも知れないけれど、ニフルムのためなのよ。」

「だけど、」

「ベル。」

 見上げると、母は微笑んでいた。そして耳元で囁く。

「あなたはこの世で誰よりも美しい私の娘なのよ。どんな痛みを伴うとしても、それが美しくさえあるのなら喜んで耐えなさい。」

「……。」

 一度俯き、そして顔を上げたベルトーチスカは氷の靴を受け取った。

 感触を確かめるよう、慎重にそれへと履き替える。王妃は満足気に頷いて席へ戻り、召使も脱がれた元の靴を手にしてその場から退いた。

「う……。」

 足を覆い密着し続ける冷たさに、小さく呻く。徐々に感覚が失われると、どうしたことか焼きつくような熱さが生じてきた。

「っ。」

 短く息を吸い、注視する皆へくるりと振り返る。その口元には笑みが浮かんでいた。

 優雅な動作でゆっくり身を沈めると、やがて楽士の奏でる音が旋律を象り始める。

 

 

 

 同じく宮内、王妃の私室にて。

 開け放しの扉の中、一枚の鏡が暗く浮かんでいた。

……。

……。

 その左右に刻まれた天使と悪魔の像が、何も言われぬのに目を開いた。

……たった今、少女は目覚めた。

……然り、遂に彼女は生まれた。

 凪いでいた鏡面が揺らぎ、やがてしなやかに踊る一人の娘が映し出される。

 耐え難さのあまり泣き出しそうな瞳を笑みで覆い、時折何かを堪えるよう唇を噛み締めて舞う、切なげな少女。その足元には、形状を維持するため特殊な製法で造られた氷の靴。

 真っ白な少女がそれを履き踊る様は、雪の精を想起させる。

ああ、ああ、なんと悲愴な面持。

おお、おお、なんと悩ましき姿。

 震える声に添われ、鏡の中でベルトーチスカは踊る。

たった今、少女は目覚めた。

然り、遂に彼女は生まれた。

 一たび触れれば、永遠に溶けて無くなりそうな笑顔を浮かべ。

 

 

 

 

 ベルトーチスカが踊り終え、奏楽は余韻を残しながら終曲を告げる。

 衛兵たちまでもが手を叩く、喝采が起きた。

 彼女はゆったりと頭を垂れるも席には戻らず、そのまま早足で広間を辞した。

 おそらく恥ずかしがってのことだろう。すっかり魅了されていた皆は彼女の行動をそう捉え、その幼さが年齢相応であることを思い出して微笑ましく見送った。

「……。」

 常に王女を警護する任であるイスベルは逡巡し、視線で兵長に指示を求める。

「良い。行け。」

「は。」

 大仰に映らぬようそっと後方へ下がり、壁際を伝って後を追う。

 ベルトーチスカが入った扉を開くと、その数歩先で彼女は力なく頽れ、侍女たちに支えられていた。

「姫っ?」

「イスベル殿、肩を貸してください。」

 慌てて駆け寄る。聞けば、広間から出てくるなり失神して倒れたのだという。

「……。」

 イスベルは一度きつく目を閉じ、それから抱き起こす。

「急いで姫様の靴を脱がせてください。あと調理場から、香油と湯を。桶も要ります。」

 不可解な指示ながら、侍女たちはそれに従う。そして靴を脱がせにかかった一人だけが理解した。

「この靴、」

「……早く。」

「は、はいっ。」

 靴を強く掴み、引き抜くように脱がせる。たったそれだけで手のひらが痺れるように冷えた。これを履いたまま一括りの叙情曲を通して踊り切った王女の辛苦は、如何ほどだったことだろう。

「こんな……。」

 思わず侍女は息を飲む。見れば、ベルトーチスカの足首から下は青黒く染まっていた。

「処置を、急がねば。近くにベッドのある部屋はありますか? ソファならばもっと良い。」

「……はい。調理師たちの休憩室に、どちらもあるはずです。」

「お連れを。」

 そう言い、イスベルは一息に主を抱え上げた。

 

 

 

 宮内にある調理場の片隅、ささやかな造りの一室へとベルトーチスカは運ばれた。

 大きく傾けた軟らかな椅子へ身を沈まされ、その呼吸は先ほどよりも深く落ち着いたものになっている。

「……広間の侍従にお伝えください。王女は前々から舞踊の稽古を重ねており、ご披露を終えた安堵からかそのお疲れが出た様子。皆々様には大変失礼ながら、お休みを欲されていると。」

 十歳の王女がそう言って夜の宴を辞しても、さほど不自然ではないだろう。イスベルの指示に、侍女は頷いて部屋を辞した。

 不自然なのはむしろ実娘にこんなことを強いた王妃だが、未だ宴の続く今、それは考えぬよう努める他ない。

「如何でしょうか……。」

 残った一人の侍女が問い、同じく主を見守っていたイスベルが答える。

「指を失うほどではありません。無茶をしなければ、ひと月もかからずに治るはずです。」

 香油ですすがれたベルトーチスカの足は、今は湯を張った桶に浸かっている。迅速に出来うる限りの処置を行ったためか、血色そのものは戻りつつあった。

「ただ凍傷より、失神されたことと、まだ目を覚まされないことがやはり気にかかります。」

「……今宵の場での王妃様によるご指示ですし、どうすることもできず、大変お辛かったのでしょう。しかし、なぜこんな……。」

 口元を押さえる彼女に、イスベルはそっと目を遣る。

 先ほど氷の靴を脱がせにかかった一人で、年齢はベルトーチスカと自分との間ほど。その若さからか、極端な年上を嫌う王女にはよく懐かれている印象を持っていた。

 名を思い起こす。

「リタ殿、でしたか。」

「……はい。」

「つかぬことを伺いますが。昨日のあの以後、王妃の姿を見られましたか?」

「はっ……?」

 彼女も主から視線を外し、イスベルと見合った。

「と申しますと、王女が城へ戻られた際の、」

「はい。あの以後に、です。」

「……いいえ。あの後は私室に居られたそうですが、ご夕食にもお見えになられませんでした。」

 

 

 

 (未完)