四、
鳴り響く携帯電話の音で目を覚ました。
起き上がって手に取り、アラームを解除しつつ時間も確認する。設定していた通りの午前六時だ。
カーテンを開き、布団を畳んで部屋を出た。昨夜慌てて駆け下りようとして転びかけたことを思い出し、手すりを頼って慎重に階段を下りる。酔いはともかく、眠気がまだ抜け切れていない。
(……もう出かけた後か。今朝も早い。)
こうなると、自分ももっと早起きするべきなのかと思う。朝日で照らされる玄関には鍵が置かれ、台所には湯気の立つ鍋が残されていた。
昨日と同じ朝の光景を寝ぼけた頭で確認し、洗顔を済ませてから朝食を並べる。白米と貝の味噌汁に、今朝作ったらしい温かな小魚の甘露煮。今日は早く登校する必要もないので、再びニュースを眺めながらなるべく丁寧に咀嚼した。
祖父の手料理は質素だけれど、味わおうという意志があれば広がりを感じさせてくれることに気付く。手を加え過ぎずにこちらへ解釈の余地を残す、つまり本人のみで完結していない味だ。
勝手にそう云々と思案していると、唐突に玄関の戸を引き開ける音がした。慌てて立ち上がり台所から顔を出せば、そこには当然のごとく柚希が立っている。
「おはよ。」
「……おはよう。」
「て、まだ制服も着てないし。」
僕の返事にそうこぼし、今日も軽装の彼女は玄関の式台にちょこんと座った。
「えっと、色々と訊きたいけど、とりあえずチャイムは鳴らす子だったよね?」
「ん? まあ気にするなよ。」と座ったまま振り返るその表情はまったく悪びれていない。
思えば昨日の帰宅時にも鳴らしていなかった。しかしずいぶん慣れた様子で祖父と接しているから、おそらく二人の間では省かれた過程なのだろう。
越してきたばかりの僕がいるから意図的にチャイムを押していたのなら、あまりとやかく言う必要もないか。
「まあうん、いいんだけど。でもどうしたの柚希。」
また迎えに来てくれたとしてそのこともだが、時間もまた早い。
「どうしたのとか。もう一〇分だよ。」
「え? ……あ、」
昨日と同じ時間に訪ねてくれたのだと気付き、頭を押さえる。
「ああそうか……、ごめん。実は昨日だけ早く行かなきゃいけない用事があって、今日からはもっと遅くていいんだ。」
「まじでか。」
「うん、言い忘れてた。ごめんね。」
「ふうん、そうなんだ。ふうーん。」
何やら不思議なトーンで唸られ、申し訳ない気が増す。
「だからまだ朝ご飯食べてて……、先に行っててよ。」
「んー、いい。どうせ時間早いし待っとく。」
「いや、でもさ、」
「だからはよ食べろー。」
柚希は床へ置いた両腕を支えに身を反らせ、睨むような目で見上げてきた。四の五の言うなということか。とりあえず頷いて卓へ戻り、途中だった食事を再開する。
そしてやがて、「まだあ? 食べるのおそいね。」と案の定、小言を継ぎ足された。
「ん……、流石に慶人さんも呆れてるよ。昨日なんて、お前は鼻から食ってるんじゃないだろうなって言われた。」
けらけらと笑う声。振り返れば、あの姿勢のままのけ反り切ったらしい柚希が玄関の床に寝転んでいた。玉暖簾の下に仰向けの横顔が、ランドセルの高さ分浮いて見える。
「……柚希、せっかくだから何か食べない?」
「うん?」
ずいぶん退屈しているようなのでそう声をかけると、彼女はうつ伏せに寝返った。どうやらサンダルを履いたままらしく、立て膝でこちらへ身を乗り出してくる。
「昨日のえびが、まだあるとか?」
「……いや、それはもうないんだけど。」
昨夜、調理した祖父本人がお酒のつまみにすべて食べ切ってしまったのだ。
「むう。あれ、おみそつけて食べるとおいしいのに。」
「うん、確かに美味しかった。」
「ううう。」
今度ははっきりと不機嫌そうに唸る。威嚇か何かか。
「あ、梅干しならあるよ。昨日気にしてた。」
「……もらう。」
玄関から上がってすたすたと台所を突っ切った柚希は、卓の向かい側に座り込んだ。
「これ?」
「そう。」
差し出した箸を受け取り、彼女は小鉢の梅を一つ口に含んだ。途端に丸っこい眉をひそめる。
「大丈夫? かなりしょっぱいよね。」
「んん、この辺のは大体こんなだよ。塩っけ増やさないとくさっちゃうから。」
「ああ、そういう理由なんだ。」
お茶を注いで渡すと柚希はもごもごと礼を言い、室内を見回した。
「なんか、いまの時間にこの家いるのってへんな感じ。」
「どうして?」
「あたしいつも帰りによってるから、夕方とかのイメージが強くて。朝は慶じい早くて誰もいなかったし。」
「いつも寄ってるって、ここに毎日?」
「ん、学校ある日はだいたい。」
ならば今現在の二人のやりとりも、打ち解け合った結果として完成された形だということか。やけに堂に入っているとは思っていたけれど。
「そうなんだ……。ところで柚希、種は? ちゃんと出しなよ。」
咀嚼を止めたにも関わらず、彼女が梅干しの種を吐き出す気配がない。はばかっているのだと思い気を遣ったのだが、「ん? かんで飲んだけど。」と事も無げに答えられた。
「あの固い種を噛み割ったの? ……本当に?」
「うん、ほら。」
ぱくりと口を開ける。血色の良い口内には白い歯が小さく並ぶばかりで、確かに種は見当たらない。
「……歯は、大丈夫なの?」
「ぜんぜんへいき。梅はねえ、種の中がおいしいんだよ。」
彼女は想像し得ない持論を展開すると、さらにもう一粒の梅干しを頬張った。
#
二人連れ立って家を出て、通学路を辿る。昨日と比べれば遅い時間であるためか、登校する児童の姿が多く目についた。
数分が経ち、
「……あのさ、」
「うん?」
その間も特に言及せず、飄々と隣を歩く柚希へ、さすがに問いただしてみる。
「どうしてわざわざ、また迎えに来てくれたんだろう。」
「……やっぱそれきく?」
「訊くよ。」
親戚の道案内を頼まれたとは言え、当日の登下校どころか翌朝まで自発的に任じてくれるのを、「親切な子だなあ。」とぼんやり甘んじるほど僕も無頓着ではない。
「いや、もちろん感謝してるし、正直助かってもいるよ。でも君も友達とか別の付き合いがあるだろうし、あまり僕の世話ばかり焼くこともないんだよ。」
「んー……うん。」
昨日の今頃、歩道橋の別れ際で見せたものと同じぎこちない表情に、何やら歯切れの悪い返事。
まとまらない思考を振り払いたいのか彼女は徐々に歩調を速めたが、やがて赤信号で引っかかり立ち止まることになった。
すぐに追いつきその隣で返事を待っていると、ようやく横顔がこちらに向く。
「うん。まあ友達いるけど……なんていうか、最近みんな子供っぽく見えてさ。」
「と、言うと?」
「たとえば、どのアイドルがいいとか、キャラがかわいいとか。あとはちょっと男子と話しただけで変なうわさになったり。とにかく、いつもくっついてるとつかれるっていうか。」
「……なるほど。」
今度は僕の方がぎこちなくなり、とりあえず頷いた。どうやら、思ったよりも深刻な理由であるようだ。
(だけど、)
ふと案ずる。前の学校同様に、こちらでも多くの女の子がトイレにさえ連れ立って行動するのを見かけた。おそらく柚希には、そういった習性も肌に合わないのだろう。となると、彼女の苦労は中学でも続くことになる。
「……まあだいたいが、こっちの地区は低学年ばっかりで同級生がいないからね。」
語気の強さで僕が黙り込んだと思ったのか、柚希は弁解するようにそう付け加えた。
「いやでも確かに、べたべた馴れ合いたがらない君が近所の小学生を引き連れて登下校するのって、想像しづらいな。」
「でしょ。」
その感想を気に入ったのか、信号が変わり再び歩き出す中、彼女は指を立てて勢いよく振り返ってきた。
「大体、生意気じゃん年下って。男の子とか特に、けったりしてくるし。」
「うん、年下に蹴られる気持ちはよく分かるよ。やるせないよね。まあ僕の場合は女の子に蹴られたんだけど。」
「でもさ、中学の制服着た紘兄といればちょっかい出されないでしょ?」
「……そういう思惑もあった訳か。なるほど。」
周囲を見回してみる。ちょうど昨夕に訪れた雑貨屋の辺りだ。
ランドセルを背負った男の子が数人、一定の距離を保ってこちらを楽しげに観察してはいるが、確かに今のところ柚希を蹴りつけてくる者はいない。
「周りが子供に見える、か。」
柚希の言葉は思いのほか意識に残っていたらしく、気付けばそう復唱していた。
そういった感覚は自分にも覚えがない訳ではないが、しかしおそらく、僕がどうこう言える話でもないだろう。
「じゃあ例えば、今柚希が興味を持ってるものって何だろう。」
若干角度を変えてそう訊いてみると、彼女の横顔は視点を上げた。
「んん、やっぱ競泳かな。とにかく、どれくらい泳げるようになるか知りたいかも。」
「なるほど、スポーツか。」
そうなるとまた、僕には想像できない世界だ。
「紘兄は? あ、わかった流木プレゼント部だ。」
「……美術部だってば。」
「だっけ。それ?」
「まあ、そうだね。もう少し正確に言えば、美術そのものかも知れないけど。」
「ふうん……てことは、図工か。」
そう言われると途端に幼く稚拙なものに聞こえるが、反論も出来ない。極論にすれば往々にして、評価を得ない芸術など他人からは何とでも呼べるのだし。
「で、逸らせておいて話を戻すけど。」
「うん?」
「意外と皆、そう思っているものみたいだよ。」
眉をひそめた柚希が、「いちいち言葉がわかりにくい。」という表情でこちらへ振り返る。
「そうって?」
「さっきのさ。自分だけが周りと違っていて、自分だけが思い煩っていて、それが自分にしか解らない悩みなんだっていう。」
現に僕も、しばらく前から抱えていた懊悩ではあるのだし。
「んん。……なの、かなあ。」
それから柚希は慎重に洗髪するような手つきで頭を抱え、少しの間うんうんと唸っていた。
見かねて結局は、
「まあ、ほら。お互いに、難しい年頃だよね。」とお茶を濁し、
「ほんとだよね。」
そう他人事のようにまとめ合った。
#
「宮口くんおはよ。」
「おはよう。あ、昨日はありがとう。」
「んあ?」
中学校にて。教室へ入り顔を合わすなり礼を言う僕に、机でぼんやり頬杖をついていた真島さんは目と口を丸くした。
「え。いや、部活も紹介してくれて、初日から協力とかして貰ったし。お礼まだ言ってなかったから。」
「……あー、」
かえってこちらが戸惑いしどろもどろにそう告げると、彼女はぽかんとしたまま頷いた。
「紳士だねえ。」
「そうかな……そんなに驚かれるとは思わなかった。」
「で、ノコギリは持って来れたんだ?」
「うん。古いけど、割りと大振りなものを借りられたよ。」
「そりゃよかった。ただ今日もしも抜き打ちの持ち物検査でもあったら、今度の転校生は相当やばい奴だって噂が立つねえ。」
「……それは避けたいな。」
「あはは。まあお座りよ。」
彼女は左隣にある僕の机を、指先でとんとんと示した。頷いてそこへカバンを下ろし、椅子を引いて座る。
脇の窓からは、吹いているというよりも揺れている≠ノ近いそよ風。端に寄せられたカーテンをゆっくりと波立たせるそれには、潮の香りが含まれていた。
どうも海が見えない場所でこそ感じることが多いその香りは、どこか不思議な存在にも思える。
「どうしたあ、ぼーっとして。」
「……ああ、」
気づくと前席の、よく日に焼けた男子が厚い手のひらを振りながらこちらへ身を乗り出していた。先ほどまで教室をたむろしていたが、登校してきた僕に一声かけるため席に戻ってきたらしい。
「何でもないよ、おはよう。」
「美術部、どうだった?」
「うん。まずまず、かな。」
「飽きたら次は野球部おいでよ。毎年他校と交流キャンプやって、楽しいから。」
隣で聞いていた真島さんが、早速口を挟んでくる。
「残念だけど、宮口くんはウチの監督だからやれないよ。」
「カントク? 美術部で?」
「そう。しかも四番。」
「……なんだそら。」
一体どういう意味だという目でこちらを見てくるが、僕ももはや笑うしかない。
「まあとにかく、しばらくは美術部のほうで頑張ってみるよ。ありがとう」
彼も熱心に誘っている訳でもないらしく、僕がそう言うとすんなり納得した。
「でも真島、お前他人の話に入ってくんなよな。昨日もずっと宮口くんに張り付いてただろ。」
「それは面倒見がいいっていうの。初日の転校生を放っとけないでしょ。」
「授業中はいらんだろ。後ろでヒソヒソ喋られると気が散るんだよ。」
「杞憂よ。」
「なんだキユウって。」
「ムダな心配ってこと。だってあんたの成績、これ以上悪くなるの?」
多少冷や冷やするやり取りだったが、どうやらじゃれ合っているだけらしい。賑やかな応酬を、まるでテニスの試合観戦のごとく交互に見遣る。
そうしていると広田先生が、やはりきびきびとした足取りで現れた。
彼はちらりと僕を見ると満足そうに頷いて(それらの挙動すら素早く)、朝の号令を促した。
無闇に話しかけてくる者が減り少し落ち着いたくらいで、昨日と似た一日となった。
たまに誰かが唐突な質問を浴びせてきて、僕の困惑に満ちた返答を聞くとそれを自分の仲間内に持ち帰り、あれこれ議論する。一見物事の中心にいるようだが、どうにも宙ぶらりんでおかしな位置に立たされているようだ。
悪意など皆無だと分かっていても、居心地は決してよくない。
(……今朝話していた柚希の気持ちが、余計に分かる気がするな。)
当然細部は違うだろうが、こういった辛酸を既に味わっている彼女が妙に憐れに浮かぶ。
僕らはただ、都合のいい孤立ばかりを欲しがっているのだろうか? 少なくとも、一方的に助言できる立場ではなかった。僕はより違和感に慣れているだけのことらしい。
もし今日も彼女が校門で待っていてくれたなら、今度はもう少し話を聞くべきかとは思った。
#
数人のクラスメイトによる、今日こそは家で集まって遊ぼうという誘いを、部活の作業を理由に断った。するとそれにすら同伴しようと言い出したので、見ていてもつまらないからと丁重に押しとどめて校舎を出る。
大袈裟に惜しんでくれる彼らと校門で別れる際、見回したけれど柚希の姿は見つからなかった。
(……まあ、これこそ当たり前か。)
正直、何も言わずに付き添ってくれていた彼女がいないことに、ちょっとした寂寥感はある。
しかし今朝の話で何か思うところがあり、クラスメイトへ意識が向かい始めているのだとしたら、それは喜ばしいことだ。
そう思い一人昨日の道を辿って浜辺に降り立ったが、何のことはない。その奥地で柚希はぼんやりと海を眺めていた。
潮風を正面から浴びるその後ろ姿へ、砂に足を取られないようゆっくりと近づいて声をかける。
「ひゃっ。……ああびっくりしたあ。」
振り返った彼女は僕を視認すると、非難を口にしつつこちらへ歩み寄った。
「紘兄もうちょっとオーラを出しなよ、ふな虫じゃないんだから。いきなり細い声でよばれて、見たらのこぎり持った少年がふらふらしてんだもん。海坊主かと思ったよ。」
「……ええと、ごめん。」
全く謝りたくないが。そもそも海坊主とはそんな妖怪だっただろうか。
「でも柚希、何でこんなところに?」
「やっぱ中学の前はいづらいから、こっちに先回りしといた。だってきのうとか、だいぶ待ってたんだよ?」
そういえば昨日の放課後は、渡り廊下で広田先生と、美術室で部員たちと話したあとだったから、彼女にすれば結構な待ち時間だっただろう。
「ああ、ごめん。でもそういうことを訊いたんじゃなくてね、」
「だからさあ、うちの方面には同級生がいないんだって。紘兄はあたしに、やんちゃな低学年からケリ回されながら家に帰れというのかね。あきカンじゃないんだから。」
「いや、そうでもなくて……、」
「とにかくほら、はやく木ぃ切ろうよ。」
僕の脇を通り過ぎ目当ての流木へ向かう彼女を、とりあえず追う。とやかく言うより、作業を済ませたほうがいいだろう。
昨日、目印に突き立てておいた棒へ歩み寄る。流木はその隣で、変わりなく転がっていてくれた。
屈み込み、慎重に位置を見定めてから、決めた箇所にノコギリの刃をあてがう。
包丁はともかく、こういった刃物の扱いには多少慣れている。押して引くノコギリの場合、がりがりと刃がぶつかる際に余計な力がないほうがスムーズに往復できるので、貧弱な僕でも役に立てる作業だからだ。
「柚希、こっち側においで。風下にいると塵が飛ぶよ。」
反対側から工程を覗こうとしていた彼女は、素直に僕の傍らでしゃがみ直した。それを確認し、手元を動かす。
マスクを忘れたことに懸念があったが、水辺であるおかげか流木の性質なのか木屑はさほど舞わず、咳き込むと止まらなくなる僕にすればそれはすごく助かった。
少し斜めにずれつつも、無事に切り終えた。用途があるかも知れないので細い小枝の部分も数本切り取り、表面や断面を海水で軽く洗う。
「……。」
ふと手を止めて振り返り、顔を上げた。どうやら校舎の上空で、大きな鳥が鳴いている。
カラスより巨躯で、姿形にも気高さのようなものがあるその鳥は、強い風を翼で受けて凧のように鷹揚と宙を漂っていた。
「ひょっとして、タカかな?」
「んーん、とんび。」
洗い終えた流木を受け取る役の柚希が、同じよう空を見上げて答える。
「あれが。初めて見たけど、鳶色(とびいろ)ほど鮮やかじゃないんだ。」
「たまにいるはやぶさのが、かっこいいよ。小っちゃいけど。」
「それも見てみたいな。……また鳴いた。本当にピーヒョロロって鳴くのか。」
距離的にはそう離れていないはずだが、随分遠くから届けられるように聴こえる。トビ自身は獰猛な性を持っているのだろうが、その鳴き声にはどこか穏やかな風情さえ感じられた。
「……紘兄ってへんだよね。」
「え?」
視線を下ろすと、柚希は不慣れそうに目を細めていた。
「だれかと話してるときより、海とか空とかとんび見てるときのほうが、ずーっと楽しそう。」
「……そうかな?」
「うん。」
「そっか。それは、まずいね。」
笑って首を掻く。小学生に悟られるようでは、同級生たちも気づいているのだろうか。あるいは例によって、この子が特別鋭いのか。
トビが僕らを見下ろして、またのんびりと鳴く。
調達した流木を約束通り美術室に置かせてもらうため、学校へ引き返した。
ランドセル姿の柚希を入れる訳にもいかないので、すぐに戻ることを請け合って校門で待たせ、玄関で靴を替えて職員室を目指す。
「おう、千紘。」
廊下を曲がったところで、反対側の階段を下りていた広田先生に声をかけられた。やはり早足の彼に会釈で応え、ちょうど職員室の前で顔を合わす形になる。
「どうした。忘れ物?」
「いえ、美術室の鍵を借りたくて。」
「お、部活か。」
「その準備です。」
「張り切ってるな。それ何持ってんだ。イソギンチャクの化石?」
「……いや、流木です。」
「ああー。取ってくるからちょっと待ってな。」
「お願いします。」
広田先生は職員室のドアを開き、一歩入って身体を伸ばした。壁に掛けてある鍵を取ろうとする影が、擦りガラス越しに映る。
イソギンチャクの化石なんてあるのだろうかと考える間もなく、彼は体勢を戻して僕を振り返った。
「千紘、先に誰か行ってるんじゃないか? カギもう出てるぞ。」
#
息切れしないようゆっくりと階段を上っていて、最後の踊り場辺りでその音に気づいた。
吹奏楽部の熱心な生徒が自主練習しているのかとも思ったが、どうやらピアノの独奏らしい。それに美術室に近づくにつれはっきりと輪郭を取るその旋律は、学生の交響に適う楽曲ではない。
「……ええと。」
ようやく眼前まで辿り着くが、カバンと流木を抱えている状態でノックは難しいので、仕方なく背中を押し当てて扉を開けた。防音されていない部屋からの音圧が、さらに増す。
分厚いカーテンを引かれた室内は、淡く曇っていた。
ただ窓は開いているらしい。風が吹いてカーテンの裾を押し上げるたび、傾いた光がさざ波のように床の上を行き来している。
「あ。」
そう躊躇いがちな夕陽が時折辿り着くのが、奥に置かれたピアノと、それを弾く女子生徒の足元だった。
僕が押し開けた扉が反動で閉まり、その音に彼女は振り返った。
昨日と今日とでやっと手に入れた流木を、危うく落としそうになった。
その女子生徒は、突然入ってきた僕と慌てて抱え直したこの持ち物とを見比べて、怪訝そうに首を傾げる。小さく優雅な動作で。
既に6月だというのにまだ二枚重ねの中間服を着ている彼女は、手元の白鍵のように沈みがちな蒼白の肌をし、黒鍵のような濡羽色の髪を背中まで流していた。
(いた。)
直感的にそう思った。ずっと探し続けていた、しかし自分でも把握しきれなかった彫刻モデルの理想条件を、全て的確に言い当てられたような感覚だった。それも、無言の内の体現として。
「……?」
彼女は表情を和らげた。入室したままの格好で呆然と突っ立っている小柄な僕が、滑稽に映ったのかも知れない。やがてペダルを踏み替えて音を緩め、尋ねてくる(そこで初めて、彼女が演奏を止めていなかったことに気づいた。失礼な話、その音よりも容姿のほうに印象が深かったのだ)。
「何か?」
控えめというか、あまり張りのない声だった。僅かに撥ねた目尻が、向ける流し目をより上品に見せている。
「……あ、の。」
僕の脳裏では色んな思考が飛び交い、つまりすっかり混乱していた。
おそらく彼女が、昨日話に聞いた一年生の美術部員なのだろう。確か名前は、今井マユナだった。昔から身体が丈夫でなく、部内で唯一絵が巧く、イメージも面白く、たまに来てはピアノを弾いて。
そうやって色んなヒントを与えられていたのに、僕はなぜだかこう口走っていた。
「アリス?」
その瞬間、抑えた音のままで正確に旋律を辿っていた演奏が、見当違いな不協和音を鳴らして途絶えた。
「……あ。ごめん、なさい。」
かろうじて詫びると、彼女がゆっくりと微笑んでゆく。
僕は口元を押さえていた。失言のためか、その笑みに寒気を感じたためかはわからない。
「先輩はどちらさま? あ、ご多忙でしたらお構いなく、うさぎさん。」
「いや、急いでない……その、僕は宮口千紘といいます。昨日、転校してきた。」
「転校。」
彼女は興味有り気に、それでいてどこか得心が行ったように頷く。
「えっと。君はもしかして、今井さん?」
「名前を知りながら愛称で呼んでくださるなんて、先輩はずいぶんフランクな紳士ですね。」
「……。」
真島さんにも言われた冗句だが、ずいぶん切れ味が違う。こちらはほとんど皮肉だろう。
僕が言葉に詰まるのを見て、彼女はくすくすと笑った。
「ごめんなさい。ええ、私が今井です。下は繭奈と申します。」
悪びれない様子で、ぺこりと頭を下げる。条件反射で辞儀を返し、改めて振り返った彼女を、ようやく正面から見た。
肌や髪がなめらかで顔立ちも整ってはいるが、特別に美しい容貌というわけでもない。なのになぜ僕は息を呑む思いをしたのだろう?
図りかねていると、今井さんはもう一度笑った。先ほどよりは、幾分か年相応に感じられるもの。
「先輩は面白いですね。」
「……どうして?」
「今、いろんなことを考えてるでしょう? それが顔に出ていて、おまけに一つ一つがとってもわかりやすい。」
「そう、なのかな?」
「そう、なのです。たとえば、」
彼女はふわりと両手を持ち上げ、先ほど途切れた曲の続きを数小節弾いてみせた。
「この曲を知ってるんでしょう?」
「ああ……、」
示されて思い出した。順序を正せば確かに、まず僕はそれを言いたかった。気がする。
「戦争ソナタ=B」
首を振られる。「嫌いな呼び方です。私の中ではプロコフィエフの83番≠ネので。」
「作曲者以外が勝手につけたタイトルは好きじゃないんだ。」
「はい。」
「つまり、ベートーヴェンの14番を月光≠ニ呼ぶような?」
「そういうことです。」
「わかる気がする。」
「気が合いそうですね。」
今井さんは譜面を眺めながら、まったくそうは思っていない口調で応じた。
話していてようやく感じ取れたのは、どうやら彼女の表情に不思議な上品さがあり、それがいつもいつも絵になるという美しさだった。
しかし僕は彫刻という、一瞬の情景を永遠へと削り取ってゆく芸術に傾倒しているのに、そんな流動的で偶発的なものを求めていたのだろうか?
「……それ、何を持ってるんです。」
ピアノを鏡代わりに経由した視線で、そう訊いてくる。
「え? ああ、さっき裏の海辺で拾った流木。これで彫刻を作るのが、僕の美術部での、っ……。」
がこん、とペダルを戻すくぐもった音に遮られた。
「構ってくださるのは嬉しいですが。いつまで奇怪なお荷物を重たげに抱えたままでいらっしゃるのか、おせっかいなアリスは心配でなりません。という意味ですよ。」
「……うん、そうだった。これを置きに来たんだった。」
なにか弁明するようにぶつぶつと呟きながらカバンを机に置き、美術準備室のドアを開ける。
そこは大きな棚に四方を囲まれた狭い空間だった。古い絵具と、乾いた画用紙の匂いが立ち込めている。
通り過ぎた一角にスケッチブックが並んでいて、ふと昨日見た黒ウサギの絵を思い出した。
何でも「アリス」のあだ名に辟易した今井さんが勢いで描いたとのことだが、それは他のデッサンよりも緻密で静かな画風だった。つまり機嫌が悪い時ほど、先のよう猫なで声になる怒り方をするのだろう。
(……あんなに快活で友好的な部員たちが敬遠するのも、無理はないかも。)
そんなことを考えながら、渡瀬部長に言われた通り最奥、たった一つの窓と事務机の間に置かれた棚の下段を覗き込む。
確かに一ヵ所だけが空いていて、そこに新聞紙が敷かれていた。紙面にはオレンジ色のマジックで、On the 官口くん≠ニ書かれている。
色々とおかしいが、おそらくここに隠せという指示なのだろう。抱えていた流木と、ポケットの中の細かな枝を慎重に置く。
そうして準備室から出ると、今井さんはぱらぱらと楽譜を捲っていた。出版社が製本したような正規品でなく、自分で印刷した頁をファイルに綴じたものであるようだ。
「……何か?」
傍らまで歩み寄り、どうやらそうらしいと確認していると、彼女は視線をこちらへ向けた。
近くで見ると驚くほど肩が薄く、体躯も細い。それは柚希のように運動を重ねて引き締めた訳ではなく、単に栄養が不足しているような、つまりは僕と同じ痩せ方だった。
「いや、話すのならとりあえず荷物を置けって、君が言ってたから。」
「はい。だけど先輩は変わってますね。私の態度を知った人は、大抵二度と話しかけてこないのに。」
「グノシエンヌだった。」
「はい?」
「君のこと。何も知らないけどようやく一つ分かった。グノシエンヌだよ。」
「……。」眉根を寄せる。
今井さんは、不審げな表情が妙に似合う気がする。むしろ、ここまで品のあるつくりにも関わらず笑顔に違和感があるというほうが、おかしいけれど正確な表現か。
あるいは苛立ちを伴って笑うためかも知れないが、もっとも相反するべき笑顔という表情をそこまで歪められるというのは、どういった経緯によるものなのだろう。
「……記憶違いでなければ、グノシエンヌとはエリック・サティの造語です。類義するものもないので、つまり曲名そのものへの比喩と受け取ります。」
ピアノに映る自分をじっと睨んでいる彼女は、向けられた言動を少しでも理解しようと努めているようにも、どんな言葉遊びだろうとついていけないのは癪なので無理に頭を働かせているようにも見える。
「もちろん素敵なクラシックですが、ただ異性に例えられて喜べるような甘い楽曲ではありませんね。」
「うん。不穏で、単調なのに明快じゃなく執拗で、初めは聴き間違いとしか思えない曲だ。」
「……。」
再び、上品かつ機嫌の悪そうな横目を送られた。
「だけど聴いていくうちに、それが綺麗に響く和音だと、必要な揺らぎだとわかる。振れ方に安らげるアンバランスというものが在るんだと気づける。君は、」
「そんなグノシエンヌだ。≠ナすか?」
頷くと、今井さんは面白そうに正面へ向き直った。
「おかしな口説き文句ですね。」
「よく口説かれる?」
「いいえ、生まれて初めて。だけどこれ以上おかしな言い寄られ方は今後ないでしょう。ところで私いま、口説かれてるんですよね?」
「そう、だね。」
「はっきりしてください。」
「……うん。色恋ではないけど、確かにあなたを必要としてる。実は、彫刻のモデルになってほしい。わりと、切実に。」
「彫、刻。それって、私を綺麗に象ってくれるということですか?」
「はい。あ、さすがに本人より綺麗にはできないけど。」
「あら。……ふふ、やっと口説かれてる気になってきました。」
彼女の横顔が、楽しげに綻んだ。
「……それで、どうだろう。モデル、引き受けてもらえないかな。」
「つまり、あなたから私へのお願いということですか?」
「そう、お願い。」
「何が何でもしてほしい?」
「はい。」
「ちゃんと。」
「……何が何でもしてほしいです。」
「私じゃないと駄目?」
「君じゃないと、駄目。」
「そう。じゃあ考えておきます。」
「……。」
そこで背後から扉の開く気配がし、僕らは同時に振り返った。
#
カジュアルシャツの袖を肘まで捲った男性が一人いて、こちらと目が合うと「おや。」と意外そうな顔をした。
年齢は五十代ほどだろうが、白い無精ヒゲで囲った口を丸くする表情にはどこか愛嬌がある(無論、今井さんと話していた為にそう感じたのかも知れない)。
「やあ。入部の話、広田先生から聞いたよ。」
そう告げられ、彼とは昨日の朝、教科書を照合する際に会っていたことを思い出す。美術の担当だったので、名前まで正確に覚えていたのだ。
「ああ、はい! よろしくお願いします、長本先生。」
頭を下げる僕に穏やかな頷きを返し、そのまま隣の今井さんへ目を向ける。
「繭サン。彼は新入部員だよ。男子だけど転校してきたばかりだから、仲良くしてやってね。」
「心配いりません。今ちょうど、熱く愛を語り終えたところですから。」
「……ちょっと、」
僕の抗議が、今度はピアノの鍵盤蓋を閉じる重い音で遮られた。
変な誤解をされたくないと長本先生へ目を向けるが、彼は「そう。若い二人を邪魔せずに済んで良かった。」と笑っていた。
「だけどこれから、三年生の役員会をすることになってね。急なもんだから場所がここしか無いんだよ。悪いけど、」
「ええ、お暇します。」
「そうして貰えると助かるよ。あと紘サン。」
「……あ、はい。」
僕のことらしい。
「国道に出るところまで、繭サンと一緒に帰ってくれないかな。体調が変わりやすい子だから。」
「わかりました。」
彼はすまなそうな笑顔のあと、僕にだけ見えるようそっとウインクした。「逢瀬の続きは別の場所で。」とでも言いたげで、それにはただ首を振って応えた。
(未完)