三、 帰らじの調べ

 

 

 

 ずいぶん数の多い窓を一つ一つ閉め、美術室を出た。

 部員たちより、授業中に真島さんから訊かれたことと大体同じ質問に答えながら、階段を下りて一階の職員室へ。

「……あ、」

 美術室の鍵を返し、そのまま連れ立って生徒玄関に向かおうとしたところで思い出す。

「僕は正面玄関に靴を置いてるんだった。」

「あれ、そうなの? じゃあ先に校門のとこで待っといてよ。私たちもすぐ行くから。」

「分かった。じゃあ後で。」

 職員室前で彼女らと別れ、一人正面玄関へ回る。

 掛けていた傘を手に取り学生靴を履いていると、今朝も会った事務員の女性がこちらに気付いた。

「あら、今日はどうだった?」

 窓口越しに笑顔でそう尋ねてくるので、とりあえず会釈を返す。

「やっぱり緊張しました。いろいろと。」

「お友達はできた?」

「えっと、一応美術部に入りまして。これから課外活動です。」

「そうなの。」と少し安心したように笑む。やはり転校生の初日の動向は気にかかるのだろう。

 彼女と軽く挨拶を交わし、玄関から外へ出た。

 

 途端に、緑と潮の香りが濃度を増す。

 こちらはグラウンドと反対側だが、運動部の激しい掛け声や野球ボールをバットが弾く音は届く。無論校舎を挟んでいるためくぐもってはいるけれど、それが今はやけに生々しく聞こえた。

 もし部活の参加制度を知らずにいたら、僕も向こうのグラウンドに混じらされる可能性があったのだ。そう思うとやはり不思議な、そして寒気に近いものすら感じる。

 クラスで一人しかいない美術部員がたまたま隣席で、何かと話しかけてくれたことには、もっと感謝すべきかも知れない。

 妙な感慨を覚えつつ、どこか逃げるような心持ちで校舎から離れ、正門へ向かう。

 生徒用の玄関は少し離れた位置にあるので、やはりまだ彼女らは来ていない。にも関わらず、校門付近に覚えのある人影を見つけた。

「おっ。」

 向こうもすぐ僕に気付き、寄りかかっていた石塀から一歩こちらへ進み出る。

「よう。」小さく手を掲げ。

「柚希。……どうしたの?」

「いや、どうしたとか。」

 むっと不機嫌そうに、けれど笑う。

「紘兄が友達つくれなくって一人でトボトボ帰るのがかわいそうだから、待っててあげたんだよ。うれしい?」

「……そのおでこにデコピンを浴びせたくなるくらいには。」

「げっ。」

 彼女は慌てて両手で前髪を押さえた。

「だってほら、昨日みたく迷子になるとこまるでしょ?」

 重ねた指の隙間からこちらを窺い抗議してくる。あれ、と疑問が浮かんだ。

「迷子って……柚希の家から帰る時のこと? 何で知ってるの?」

「だってうち坂の上だから、慶じいの家まで見えるもん。ていうか紘兄が普通に来たほうと反対に帰ってくから、どこいくんだろうって気になって見てたんだけどね。」

「……。」

「そしたらなんか同じとこをうろうろしてるから、ああただ迷ってるんだってわかって。よっぽど助けにいこうかと思ったけど、それはさすがにはずかしいかなって、知らないふりしてあげてたんだよ。」

「……。」

 肉眼で捉えられる範囲を延々と彷徨っていたのか、僕は。

「まあ、へこむなよ。」絶句していると、ぽんぽんと肩を叩いてくる。

 色々な感情が渦巻くが、要は構えを解いて露わになった彼女の額にデコピンを浴びせれば収拾がつくだろう。指で構えを取ろうとすると、背後から声を掛けられた。

「宮口くん。その子、妹?」

 手を止め振り返ると、既に部員たちが三人とも集っていた。首を振って答える。

「いや、親戚。と言っても昨日初めて会っ――」

「頭とか撫でていい?」

 最後まで聞かず柚希に歩み寄り、そう尋ねたのは井ノ崎さんだった。

「え? ……あ、えっと、本人に訊いてみて。」

 彼女は渡瀬部長や真島さんと違い比較的クールだと思っていたが、意外な一面があるようだ。勿論柚希にとっては誰だろうと関係なく、ただいきなり初対面の中学生にスキンシップを求められて戸惑っている。

「名前なんていうの?」

「ゆ、柚希です。」

「柚希ちゃん、頭撫でてもいい?」

「え、え。……あ、はぃ。」

 ほとんど押し切られて頷く。遠慮なく撫で始めた井ノ崎さんに続き、渡瀬部長が「私もー。」と柚希の髪に触れた。

 完全に面食らっているその様子を見て、僕は逆に平静を取り戻す。

「とりあえず、迎えに来てくれてありがとう。ただ今から、流木拾いに連れて行って貰うんだけど……柚希も来る?」

「りゅうぼく?」

 一層怪訝そうな柚希に、「おいでよ。」と井ノ崎さんが誘う。

 そしてそれに、部長と真島さんも続いた。

「うん、用事ないなら一緒に行こう。」

「えっと、柚ちゃんって呼んでいい?」

「……。」

 やはり押し切られる形で、柚希は頷いた。

 

 

 

 五人で、中学校の敷地に添う坂道を下る。

 柚希は渡瀬部長と井ノ崎さんに挟まれ、両側から手を握られていた。ただ一人自転車通学らしい真島さんはそうする訳にもいかず、僕の隣で自転車を押して歩いている。

「あーあー、柚ちゃんも大変だ。」

 弾力を確かめるように頬を触られている柚希を見て、彼女は苦笑しつつ言った。

「……その、井ノ崎さんは割りと落ち着いた人だって認識しかけてたから、正直少し驚いたんだけど。」

「お、なになに? じゃあうちらは落ち着きがないって?」

「あ、いや、そういう意味じゃなくて。」

 僕が慌てたのを確認して、真島さんは「冗談。」と満足げに笑う。何だかんだでこの人が一番くせ者だとは、薄々思う。

「まああの子は、昔っから可愛いものには目がないっていうか。中二にもなって、まだヌイグルミだらけの部屋で暮らしてるくらいだよ」

「へえ……。」

 女の子の部屋というものが分からないので何とも言えないけれど、あるいは彫刻ばかりを並べる僕の部屋と近いのかも知れない。

 しかし当初こそ、柚希がいつ部長たちの腰を蹴りつけるかと危惧していたが、どうやら心配無用だった。

 年齢や見た目の身長は近くても、制服を着込んだ彼女らと、ラフな私服でランドセルを背負った柚希とでは差違があることを、小学生なりに感じ取っているのだろう。

 それを踏まえた上で蹴られた僕はどうなるのかとも思うが、気にせずにいよう。

「ね、さっき柚ちゃん親戚って言ってたよね。じゃあ宮口くんて、もともとこっちの人だったとか?」

 真島さんがこちらに振り返って訊いてくる。

「ああいや、血の繋がりはないんだ。」

 今度は手櫛で髪を梳かれている柚希を眺めながら自然に答え、ふと気付く。

 見れば、真島さんも目を丸くしていた。

「そうなの?」

 あまり簡単に洩らすべきことではなかったか。ただ口にした以上は仕方ないので、すんなり肯定しておく。

「別に複雑って訳じゃないんだけど、それなりな事情があって。」

「ふうん……。」

 ゆっくりと頷き返す彼女の向こうで、柚希が笑い声を上げた。半ば無理やり引きずってきたので案じもしたが、どうやら嫌がってはいなさそうだ。

 昨夜会った母親も「近所は年下の子供たちばかりだった。」と言っていたし、ひょっとするとそう鬱陶しいものでもないのかも知れない。

(……まあ、よかった。)

 小さく安堵の息を吐くと、真島さんが再びこちらを振り返り笑った。

 特に深い意味などないのだろうけどどこか救われる思いがし、そしてそんなことが有り得るのだなと知った。

 

 

 

 

 坂道が、ここ数年は剪定されていそうにない植え込みによってあやふやに終わる。

 その育ち過ぎた枝で両側から狭められた石段を下ると、ささやかな浜が広がっていた。地形の凹凸が激しく、また所々に大きな岩が転がっているため海水浴場には向かないだろう。ただそれが人の足を遠ざけてくれるらしく、漂着物は無数に残留していて、また近辺に誰かの気配もない。

「着いたあ。」

 さておき、部長たちが一目散に水際へと走る。海辺の町で暮らしていても、やはり目の前にすればそうしてしまうのか。

 僕も続こうとはしたが、砂に足を取られ思うように進めない。それどころか転ばずに、そして砂が靴へ入らないように歩くだけで精一杯だった。

「……宮口くん、大丈夫?」

 カバンを置き、既に波打ち際に立っている井ノ崎さんと柚希がこちらへ振り返っている。体力云々以前に、慣れの問題なのかも知れない。

「大丈夫……。」

 答えながらようやく隣に並び、改めて顔を上げた。

 海だ。当然なのだけど、そう言い直さずにいられない。足元まで届く波が遠くの沖では細かく揺れ、そのたびに日光をきらきらと反射させている。

 屈んで指を浸し、そっと掬(すく)う。涼やかな温度と、手の中で弾けていく泡一つ一つの感触がある。

 初めて同じ高さで向き合い、そして触れた。

 やがて風景の眩しさに気付き、目を細める。

 日はまだ高い位置で輝いているが、柔らかなもので暑くはない。空気が澄んでいるためか陽光も生身のまま届いてくる感覚があり、それは何も選ばずにただすべてへ注いでいる。

「……。」

 思えば今まで、照らす光に違いなどなかった。だけどここの太陽には気軽に触れてくる親しさのようなものがあり、恩着せがましくない好意がある。潮風を交えたそれを僕は素肌で感じ、受け取ることができる。

「……紘兄?」

 呼び掛けられ、いつの間にか閉じてしまっていた目を開く。見ればサンダルのまま浅瀬に入った柚希が、両手で掬った水をぼたぼたと足元に零していた。その少し向こうでは、部長たちが素足になって波を蹴ったり、石を水面に投げ込んだりしている。

「どうかした?」

「ああ、いや。」

 柚希はおそらく何か悪戯をするつもりでいて、しかし僕が物思いに耽っているので踏み止まったのだろう。察しのいい子だ。

「何でもないよ。」

 子供らしい行動を抑えさせたことに申し訳なさを感じつつ笑顔をつくる。その直後、彼女が蹴り上げた海水を真面に浴びた。

「ぷあっ。」

 海水とは本当にしょっぱいらしい。ただあまりの塩辛さに咽る。

 柚希はけらけらと笑いながら逃げていったが、やり返すなどの抵抗を僕が一切しないと分かると、やがてつまらなそうに浅瀬から上がった。

 ただ、携帯電話を取り出し海水で故障していないかを確かめていると、「あ、携帯いいなあ。」と無防備に覗き込んできたので、その額を指で弾きはした。

「いー。」

 妙な声を出して彼女がうずくまる。軽く当てただけなのに大袈裟だと思っていたが、徐々に涙目になっていくのを見てさすがに慌てた。何でも、丁度面皰(にきび)のある箇所に命中してしまったらしい。

「……子供の頭部であって同時に女性の顔でもある柚ちゃんのおでこを攻撃するなんて言語道断。」

「ニキビって、つぶすと一生痕に残ることもあるんだよ。」

「そもそも無闇に女の子をデコピンすべきじゃないんじゃないかな?」

 駆け付けた部員たちが柚希の肩を抱きながら、一人一人そうなじってきた。

「えっと……。柚希、ごめんね。この通りです。」

 顔を隠す彼女が、狼狽する僕を見てこっそり笑っていることに気付きながらも、とりあえずは両手を合わせて謝る。

 それから渡瀬部長が、全員を浜に上げさせてここへ来た本題を再提示した。

 脱いだ靴下をスカートのポケットからはみ出させつつ皆を統率する姿は少し滑稽だし、そもそも一番最初に遊び始めたのは彼女自身だったが、場を仕切り直すそのリーダーシップには素直に感心する。

 僕はまず流木というものをよく知らないので、手近な一つを拾い上げて丹念に触れてみた。

 波や砂に研磨された表面は白くなめらかで、長い旅路を想起させる。どれほどの潮を泳ぎ、海鳥の声を聴いてきたのだろう。

 枝分かれした細い部分に足を掛け、申し訳ないが体重で圧し折った。そしてその断面の感触も確かめる。

「……どう?」

 僕の行動を見守っていた部長に、振り返って答える。

「思ってたよりも良いみたいだ。複雑なものは難しそうだけど、大まかな造形と飾り入れくらいの彫刻には申し分ないかと。」

「よかった。無駄足にならなかったねえ。」

 先ほどの水遊びで十分有意義に過ごしていたようにも見えたが、何も言うまい。

「じゃあ集めよっか。でも、どんなのを拾えばいいの?」

 真島さんのもっともな質問に頷く。

 周囲に流木は数えきれないほど転がっており、枝振りは勿論、質感から色合い、乾燥や痛みの具合まで、どれもが違うようだ。

 モチーフを決めず、感化されたものを無作為に拾い集めても収拾がつかないだろう。

「それなんだけど……、」

 そして、また井ノ崎さんと手を繋がれている柚希に目を向ける。

「柚希、その名札をよく見せてくれる?」

「え、これ? うん。」

 先ほど僕が責められる様を見てすっかり機嫌を直した彼女は、胸元の名札を指で持ち上げた。そこには、名前とともに小学校の校章が記されている。

「それ、花のマークだよね。何の花か分かる?」

「ええと、たぶん水仙? とかじゃなかったかな……。」

 柚季は言いよどみつつ隣の井ノ崎さんへ顔を向けた。彼女もその名札を確かめ、頷く。

「だね。体育館とかに水仙のマークがあったの、私も覚えてる。」

「……なるほど。」

 それを聞き固めた考えを、早速提案してみる。

「じゃあこの水仙の花をモチーフに彫刻を造って、完成したら小学校に寄贈するというのはどうだろう。」

「……小学校に?」

「なんで?」

 一様に目を丸くする皆に、続けて自分の考えを説明する。

「小学校側としては、手作りの品を貰って黙っている訳にはいかないだろうから、中学側に何かしらお礼を言うと思う。それが先生たちに伝われば今後僕らも動きやすくなるというか、少しでも協力的になってくれるかも知れない。」

「……と、宮口くんが入った効果だから好印象だし、やっぱり男子は入部できないとか言われる可能性もぐっと減らせる。みたいな?」

「まあ……そうだよね。」

 真島さんによる本音部分の補足をぎこちなく肯定すると、やはり苦笑された。

「どんだけ運動部いやなのって思うけど、まあわかった。けどそれなら、あんまりゆっくりしてられないねえ。私たちは何すればいい?」

「えっと、皆、手伝ってもらえるのかな。」

 遠慮がちに渡瀬部長と井ノ崎さんへ視線を配るが、二人ともすんなりと頷いた。

「トランプにも飽きて暇だしね。」

「内申とか上がりそうだし。」

「……ありがとう。」

 何だか素直に感謝しづらいけれど。

「じゃあとりあえず、特に状態が綺麗なものを探して欲しい。その中から適した形のものを選びたいから。」

「全員分かったー? じゃあ、捜索始め。」

 部長が合図し、皆散り散りになって浜に広がる。

 ここに流れ着いた漂着物は流木ばかりでなく、半壊したポリタンクや発泡スチロールのケースも大量にあった。また空き缶、空き瓶などの類も多い。

 それらはただ散在しているのではなく、仮想のラインに倣うよう、ある程度規則的に並んでいる。かつての水位によるものだろう。

「……紘兄って、まさかもてるの?」

「え?」

 いつの間にか作業に付き合わされている柚希が、隣から訊いてくる。

「まさかって一体……。でもどうして?」

「まわり女の子ばっかりじゃん。」

「ああ、女子しかいない部活に僕が入ったってだけだよ。」

「流木プレゼント部?」

「いや、美術部。」

「びじゅつ?」首を傾げる。

 そうか、美術という教科は中学からだった。

「えっと、絵を描いたり、何かを造ったり……。」

「図工部か。楽しそう。」

 まあそんなものだろう。ふと、目に入った流木の一つを拾い上げてみる。形状は面白いのだが少し痛みすぎていて、また一部が黒ずんでしまっている。

 見回せばほとんどの流木に、いくらかの腐食が有るようだった。ゴミとともに長期間放置され続けてきたせいだろうか。

「柚希も来年中学生になったら入る? きっとお姉さんたちに歓迎されるよ。」

 それを無造作に放って訊いてみるが、彼女は首を振った。

「むり。あたし競泳やらされてるから、水泳部入んなきゃしかられる。」

「競泳……そうなんだ。」

 確かに柚希の身体つきには、ただ食が細いだけの僕と違っていかにも持久力を備えていそうなしなやかさがあるように思える。何となくだけれど。

「初めはいやいやだったけど、やってみると楽しいよ。紘兄って、およぐのすき?」

「僕は、海だって昨日初めて見たんだよ。」

「ん?」

 その返事に手を止めて、彼女はこちらを見た。

「……紘兄、およげる?」

「人が水に入る必要があるのなら、まだエラ呼吸のまま尾ひれや水かきを持って生まれてくるはずだ。」

「そっかそっか。」

 憮然とする僕に、悪戯っぽく笑いかけてくる。

「もう一度、デコピンしようか?」

「そしたらうそ泣きする。めがねのお姉ちゃんに怒られろ。」

「……また?」

 そこで遠くから名を呼ばれた。

 振り返ればずいぶん離れたところで渡瀬部長が手を振っていて、他の部員も彼女の元へ駆け寄っていた。

 よく通る声だと感心しつつ、僕も柚希とともに向かう。

「宮口くん、これどう? 結構よくない?」

 そう急かされ近づいてみれば、確かにそこへ横たわる流木には腐食や痛みが見当たらない。

 ただ部長がそれを拾わずに皆を招集したのは、TVアンテナのように巨大なその流木は半ば砂に埋もれていて、回収はおろか少しも動かせなかったためだった。手分けして無理やり引っ張り出しては枝を折りかねないし、掘り起こすにしても砂は固く乾燥し切っている。

「これは、素手じゃ難しいな。」

「やっぱ無理かあ。でも形とかいいでしょ?」

 同意する。状態もさることながら、この枝ぶりなら元の形を生かしたままに、水仙の花弁を表現できるだろう。

「学校からシャベルでも借りてくる?」

「それもどうだろう。まず全体が大きすぎる……。」

 これを丸ごと持ち帰ることはまず不可能だし、第一必要なのは細かく分かれる上部の枝だ。しかしそこだけを器用に折れもしない。となると、

「切るしかないんじゃない。」

 同じ考えらしい井ノ崎さんが、冷静に呟いた。

「うん。そうなるとノコギリが必要なんだけど、部長。」

「普段電動のを使うから、持ち出せるようなやつは美術室にないよ。」

 とあっさり首を振る。

「あるとしたら技術室だけど、堅物な先生だし……。うちらがいきなり頼んで貸し出し許してくれるかは微妙。」

「なるほど……。何?」

 思案していると、柚希が後ろから袖を引っ張ってきた。

「のこぎりくらい、慶じいが持ってるんじゃない?」

「……ああ、」

 言われてみれば、確かにそうだ。

「のぶじい?」

 ジャグジー≠ノよく似たイントネーションで真島さんが首を傾げる。

「えっと、僕の祖父だよ。林業の仕事をしてる。」

「おお、じゃあありそうだね。」

「でも宮口くん家って近いの? ノコギリ取りに帰って、また戻ってきて流木切って帰るって、時間的にどう?」

「多分トータルで……二時間くらい、かかるかな。」

「ありゃ。」

「厳しいね……。」

 そこで一旦皆が黙ると、渡瀬部長が手を叩いた。

「はい、じゃあ今日は無理だ。いさぎよく、次の部活日の木曜に持ち越し。」

 と、終止符を打つ。

「だから宮口くん、明後日にノコギリ持ってきてもらえる?」

「ん……いや、明日にもうやっておくよ。この流木だっていつまであるか分からないしね。」

 そう答えると、彼女はぱたぱたと手を振った。

「明日は部活ないから、うちら集まらないよ?」

「うん。またここに来て、使う部分をノコギリで切るだけだから一人で充分だよ。そしたら明後日からもう作業に入れるし。」

 そもそも僕の我侭で始めたのだから平気だと告げると、どこか申し訳なさそうに皆が頷いた。

 やがて部長が口を開く。

「じゃあさ、せめて切った流木は、美術室に置いてっていいよ。」

「……美術室に?」

「うん。あ、ただし美術準備室のほうね。だってこれ持って帰って、また部活日に持って来たりするの大変でしょ。」

 確かに、僕の体力ではつらいだろう。

「でも勝手にそんな、物を持ち込んだりしていいの?」

「全然平気。あそこは先生より私のほうがずっと把握してるし。明日、奥にある棚の下段空けとくから、そこにでも入れといてよ。」

「……分かった。じゃあお願いします。」

「ふっ、OK。」

 なぜか一瞬笑った渡瀬部長は正面に向き直り、再度声を張る。

「えー、では引き上げますよ。皆忘れ物とかないように。」

 各自応えつつ、それぞれが置いていた荷物へと向かう。

 しかしこうも人をまとめられるのだから、彼女はもっと大人数の部活を統率したほうがいいんじゃないだろうか。そう思いつつ、僕も自分のカバンを拾い上げた。

 

 

 

 

 下ってきた坂道を引き返し、再び中学校の前を通り過ぎる。

 やはり両側から構われる柚希を真島さんと傍観しながら歩き、そして広い国道に出た辺りで突然雨が降り出した。

 決して弱くない雨脚だったが、皆迷惑そうに空を見上げただけで特に対処を起こさない。そのため僕は、慌てて取り出した傘を何やら開きかねた。

 そうこうしている内に、今朝柚希と別れた歩道橋へと差し掛かる。

「……ああ、待って。僕らは渡らないよ。」

 部長と井ノ崎さんが当然そうに彼女を挟んだまま階段を上ろうとするので、呼び止める。

「え、そうなの?」

「そっか。だから今まで面識無かったんだ。」

 柚希はひょこりと頭を下げて二人の拘束から逃れ、こちらへ駆け寄る。その表情にはやはり安堵が窺えるが、多少の未練がましさも含まれていそうだった。

「お帰り。」

 そう声をかけた僕を、柚希は撫でまわされて乱れた髪を直しながら睨みつけてくる。「もっと早く助けろ。」と言いたいのだろうが、それほど嫌がっては見えなかったのだから仕方がない。

「じゃあね柚ちゃん。また会おう。」

「今度美術室にもおいでよ。」

「宮口君も、また明日ね。」

「あ、ちょっと。」

 完全に柚希のオプションとして扱われていることもさておき、閉じたままの傘を差し出す。

「これ貸すよ。」

 祖父のものを勝手に貸すべきかは分からないが、傘を持っているのは僕と柚希だけなようだから仕方ないだろう。

 が、彼女らは不思議そうにこちらを見返した。

「え? いいよ別に。」

「すぐ止むし。」

「……でも濡れて帰るのはまずくない?」

「紳士だねえ。でもそういうのは淑女にやんなよ。」

 うちらは違うしと笑い合いながら、さっさと階段を上り始めてしまう。

 三人組に一本の傘を貸すというのも若干苦しい善意ながら、何もしないよりはと思ったのだけれど。

「じゃね。」

 真島さんも軽く手を振り、続いてゆく。

「……あ、うん。また。」

 特に彼女には一日を通し世話になったので、きちんと感謝を伝えるべきとは思っていた。しかし雨の中自転車をスロープへ押し上げているところを呼び止めるのはさすがに忍びなく、そうあっさりとした別れを看過してしまった。

 明日にも会うのだしその時でいいかと思い直し、差し出した傘を結局自分で開いてまた歩き出す。

「……で、何で君まで傘を使わないの。」

「やっぱり?」

 僕の指摘に柚希は、ばれたか、という表情をした。

「せっかく持ってるんだから、ちゃんと差しなよ。」

 気のない返事で応え、取り出した折畳傘を渋々開く。

 この町で傘という存在は少しも重要視されないのだろうか。確かに雨具として万全とは言いがたいけれど、何もそう軽んじなくてもいいのではと思う。

「大体、寒くないの?」

 昨夜も、先ほどの海辺でも思ったけれど、ただでさえ軽装の彼女が水に濡れているとそう見えて仕方ない。どうかすると、こちらが身震いしてしまいそうだ。

「ぜんぜん。もう春じゃん。」

「……まあ、そうだけど。」

 競泳をしていると言っていたか。となれば、おそらく風邪などもそう簡単にはひかないのだろう。

「ちょっといい?」

 少し羨ましくなり、隣へ手を伸ばした。

「?」

 それをただ目で追う彼女の、二の腕辺りに触れてみる。手のひらに伝わる、幼い筋肉と血流の感触。

 また日焼けした肌は熱く、まるで太陽に晒されたその記憶を鮮明に持ち続けているようだった。

「……本当に寒くなさそうだね。かなり温かい。」

 不思議とどこか新鮮に感じる、剥き出しの体温と躍動。数秒間そうしていて、やがて身を引かれた。

「セクハラだ、ついに。」

「……遂にって。」

「じょうだん。だって紘兄の手冷たいんだもん。」

「ああ、ごめん。」

 妙な点を謝る。

「……と、そうだ。このまま借り物の傘を持ち歩くのは不便だから、僕も自分用に折畳式の傘を買いたいんだけど。近くに売っている店ってあるかな。」

 正面へ向き直った柚希が、再度こちらへ振り返る。

「紘兄、お金持ってきてるの?」

「一応。」

「不良だ。」

 そう呟くも、彼女は前方を指差し提案を述べてくれた。

「この先に大きめのお店があるけど、ここ通って帰る先生も多いから見つかるかも。あんまりよくないよね?」

「そうだね、転校初日から目をつけられたくないな。」

「じゃ、帰る途中の小さい雑貨屋さんに寄る? そこなら絶対ばれないよ。代わりに種類は選べないと思うけど。」

「……まず、途中の道に雑貨屋さんがあったんだね。」

 通っておいて存在に気付かなかったくらいだから、相当小規模な店なのだろう。だが傘はただ雨さえ凌げればいいので、そう拘(こだわ)りはない。

「じゃあ、そっちにお願いしていいかな。」

「わかった。」

 それからしばらくは黙って歩いた。傘が滴を弾く音と、車が雨水を掻き分ける音がただただ忙しげに行き交う。

「……そういえば、今日の昼に何を食べたかは訊かないの?」

 ふと思いついて問う。柚希は傘を持ち上げて顔を見せ、

「だっておんなじじゃん。給食でしょ。」と一蹴した。

「それもそうか。」

「……じゃあ、ちゃんと残さないで食べた?」

 僅かに間を置き、そう逸らして訊いてくる。

「量がきつかったけど、何とか。」

 確か具の多い味噌汁と、白身魚のフライと、根菜のサラダだった。こちらの食器は金属製で何だか軍隊のようだったが、味そのものは美味しかった。

「柚希は?」

「ん……しいたけは友達にこっそり食べてもらったけど、それくらい。」

 おや、と今度はこっちが顔を覗く。

「椎茸が苦手?」

「だってあんなのナメクジじゃん。」

「……それ、食べてくれる友達の前では言わないほうがいいよ。」

「そう思った。すごい怒られた。」

 遅かったか。

 やがて国道から折れ曲がって細い路地へ入る。朝下る時には気にならなかったが、一日を終える最後のタイミングで連続する坂道を上るというのは、中々につらい。教科書のほとんどを学校に置いてきて良かった。

 ただそれでも僕の動きは鈍いらしく、柚希は明らかに歩調を合わせてくれている。

 広田先生には悪いが、サッカー部に入るまでもなさそうだ。毎日この坂を上り下りするだけでも、僕にとっては十分な鍛練になるだろう。

「……紘兄つかれた? かばん持とうか。」

 喘息持ちの常として無理をしない速度を維持していると、そう柚希が補助を申し出てくれた。さすがに遠慮し、礼を言う。

 先ほど体温に触れただけで確信したが、彼女は本当に健康体であるようだ。多少の勾配や水辺を駆け回る程度では息一つ乱れず、またあどけない瞳には活力が有り余っているよう感じられる。

「あと、いつまで傘さしてるの。」

「え? ……ああ。」

 既に止んでいたらしい雨にも気付かないほどくたびれているのか。何にせよ傘を下ろし、また閉じる。

「……なに? さっきからじろじろ見て。」

「ん。いや、柚希が眩しくて。」

「またセクハラか。」

「……だから、さっきのも違うって。」

 雨に打たれ風に晒されても顧みずに済む肌と、何を危惧する必要もなく走り回れる器官。

 割りと純粋というか、濁りのない羨望と思うのだけど。

 

 

 

 会計を済ませ、ただ土間に商品を並べただけの雑貨屋を後にした。外観を振り返ってもやはり看板など一切なく、商店であると誰しも容易には気付けないだろう。

「あった?」

 中は狭いからと店内に入らずガラス戸の脇で待っていた柚希に、目当てだった折畳傘を持ち上げて見せる。

「あった。確かに種類は選べなかったけど。」

 八畳ほどの売り場の片隅で見つけた傘はたった一種類で、うっすらと埃を被っていた。

 まあいいさと一択し会計を頼むと、「使い方が分からんのよ。」と店主は開けっ放しのレジから釣銭を取り出し、それを僕に渡すと奥へと引っ込んでしまった。色々と心配になる店だ。

「あと、これ。」

 また帰路を歩き始める際、一緒に買ったタオルを広げて柚希の肩に乗せた。ベージュと白のマスコット(熊らしい)がプリントされているそれをとりあえず見回して、彼女は顔を上げる。

「……なに?」

「寒くないのは分かってるけど、一応。今日のお礼も含めて。」

 それなりに探したのだが、台所洗剤やハンガーばかりが揃うこの店の中では、これがもっともプレゼントらしかったのだ。タオルなら、いくらあっても困りはしないだろうし。

「べつにいいのに。」

「まあ、女の子用のデザインだし使ってよ。高いものでもないから。」

 タグが付いたままなのは申し訳ないけれど。

「んー……じゃわかった。もらう。」

 水気の残る髪を拭きながら「ありがと。」と小さく継ぎ足され、「こちらこそ。」と呟き返す。

 通り過ぎた夕立はすっかり鳴りを潜め、振り返れば雲間から紅い西日が射していた。

 ふと心配になり、問う。

「大分帰りが遅くなったけど、怒られたりしない?」

「平気。この辺じゃなんにもないって。」

 昨日も似たようなことを言っていたか。夜に子供一人を出歩かせるのだから、本当に治安のいい地域なのだろう。

「だけど濡れて帰るのは怒られる、と。」

「うん。まあお母さんはここで育ってないからねえ。」

「そうなんだ。……関係あるの?」

「ある。」

 なぜか得意げに頷かれた。

「……ん、さっぱりした。」

 やがて拭き終えたらしく柚希はタオルを折り畳み、そして珍しくばつの悪そうな表情を浮かべた。

「で、これさ。もらうけど、紘兄の家で預かっててくれない?」と、何やら不思議なことを言い出される。

「なぜ?」

「うちね、かってに誰かから物もらったりしても怒られるの。」

「……ええと。僕は一応年上の親戚、になるんだけど。それでも駄目なのかな。」

 またずいぶん行儀のいい家庭だと感心するが。柚希は難しい顔で唸った。

「んんん……。実はね、うちじゃ紘兄の話があんまり出来なくて。」

「うん?」

 言いづらそうに、けれどそれ以上に不可解そうな様子で彼女も首を傾げる。

「会ったきのうもだったけど、紘兄の名前出すとお父さんもお母さんもなんか黙っちゃって、ぜんぜん話したがらないの。……なんだろ?」

「……そうなんだ。」

 不思議がるその隣で、頷く。

 昨夜に感じた柔らかな拒絶は、やはり思い違いなどではなかったらしい。しかし確かに、一人娘が異臭のする従兄へ無邪気に構うというのは、両親にとって複雑な心持ちであることだろう。

 あるいはもしも柚希が今ほど幼くなければ、その原因も知らされていたのだろうか。しかしそうであったら彼女も、こんなに気安く接してはくれなかったはずだ。

(いや、そんなグロテスクな話をわざわざ娘には伝えないか。)

 不毛にその胸中を慮っていてふと、柚希が覗き込むようにこちらを見上げていたことに気付いた(身長差的に、わずかな角度だけれど)。

「……。」

 目が合うとすぐに前方へ向き直ったその所作に、どうやら反応を誤ったことを悟る。

 僕が憤慨はおろか訝しみすらしなければ、そうなるのも無理のない、そして彼女には知らされていない何かしらの理由があるのだとはっきり教えてしまうようなものだった。

 今さら取り繕えずに、ただ首を振る。

「とりあえず、分かった。そういうことなら預かっておくよ。」

「ん。だから雨でぬれたら、紘兄の家によってこのタオル借りて、ふいてから帰るよ。だからちゃんと洗たくしといてね。」

「……どういう使い方?」

「いいじゃん、あたしのなんだし。」

「君のだけどさ。まずちゃんと傘を差さないと。」

「やっぱりそうなる?」

「そうなるよ。」

「だってさあ、」

 先ほどの空白を認識しつつ、そうやって互いに流し合っていく。

 僕も未成年ではあるが、それにしても子供というのは物事や他者の心情を、ずいぶん敏感に感じ取るようだ。もしくは柚希が特別なのだろうか? 思えば年下の人間と接する機会はほとんど持ち得なかったので、推し量れない。

 やがて家の前へ辿り着き、柚希は湿り気を帯びたタオルを渡してきた。

「じゃあ紘兄さっそく、これおねがい。」

「ああ、」

 受け取って今日の送迎の礼を言おうとするも、彼女は僕より先に戸を引き開けていた。

「慶じいー。」

 その呼び掛けに続く形で玄関へ入れば、玉暖簾から顔を覗かせた祖父が僅かに口の片端を上げ応えていた。

「ただいま帰りました。」

「ん。」

 こちらへ頷いた祖父は、柚希の「いいにおい。なに作ったの?」という言葉を聞いて台所へ引っ込んだ。程なく、細長いピンク色の物体を手に戻ってくる。

「えび?」

「ん。」

 差し出されたそれに柚希は躊躇いなく噛みついて、器用に尾だけを祖父の手に残すよう食いちぎった。

「うん、おいし。じゃあね。」

 咀嚼しながら手を振り、そのまま彼女はさっさと玄関から出て行ってしまう。

「え、あ、うん……。」

 動作が素早く、その後ろ姿は道路へ戻りあっという間に小さくなっていく。

 真島さんに続き、また礼を言い損なった。むしろ皆、あまりにも別れ際があっさりし過ぎている気もする。

「……すぐ出来るぞ。さっさ荷物置いて来んさい。」

 餌の無心に訪れた野良猫をあしらうよう柚希へ応対した祖父が、台所へ戻りながら言う。またあの、赤く染まった包丁を扱っているのだろうか。

 刃物のイメージで、ふと思い出す。

「あ、お祖父さま。小振りなものでいいので、ノコギリを一つ貸してもらえませんか? 明日、学校に持って行きたいんです。」

 祖父は再び玉暖簾から身を乗り出した。

「誰に苛められた。」

「……いえ、そうでなく。美術部の活動で木を切るのに使いたいので。」

「ふむ。」

 どこか意外そうに繁々とこちらを見、頷く。

「飯の後で良いか。」

「勿論です。ありがとうございます。」

「なら早く戸ぉ閉めて上がれ。……あとそんな言葉使いせんでいい。」

「あ、はい……。」

「さま≠烽「かん。」

 そう言って会話を打ち切り、台所へと引っ込んでいく。

 揺れる玉暖簾を見つめつつ数秒思案し、何のことであるかを理解した。

 

 

 

 

「えらく遅かったが、帰りは毎日、今くらいになるのか?」

 茹でた海老と、昨夜と異なる種類の刺身を並べた夕食時、祖父がそう訊いてきた。

 その歯ごたえと風味に感心しつつ時計を見遣れば、確かに一八時を半ば近くまで回っている。

「いえ、ただ今日が丁度部活動の日だったようで。同じく木曜と土曜日も、おそらく遅めに帰ります。」

「何だ、美術部てな?」

「はい。彫刻をしようと思いまして。」

「……そんな器用な真似が出来るのか。」

「一応は。小さい頃から好きで、こちらに来るまで教室に通ってもいました。」

 そう答えると祖父は箸を止め、ずいぶん奥まで引っ込んだようにも見える瞳を丸くした。

「習っていたのはピアノじゃなかったのかね。」

「ええ、ピアノもですが……それはどちらかというと母に強く促されたもので。自主的に学んでいたのは彫刻のほうです。」

「そうな。」

 何やら渋面で頷かれ、僕は慌てて付け加える。

「あ、もちろん今ではピアノも好きです。先ほど学校でも少し触ってきました。」

 昨日、二階にピアノがあると告げられたことをすっかり忘れていた。もしそれが僕のためにわざわざ用意されていたものなら、あまりにも失礼な発言をしたことになる。

 だけどそれは杞憂だったようで、祖父は眉間に皺を寄せつつも満足気に呟いた。

「ままごとばかりかと思えば、そんな為になる手習いもしていたか。」

「え。」

「表札はどうな。宮口≠ニ彫れるのか?」

「……おそらくは。」

 試みたことはないが、姓の字面は割り合い直線的で彫りやすそうに思えるし、仕上げはアクリル絵の具とニスで事足りるだろう。

「なら、頼めるか。」

「あの、あまり凝ったものは彫れませんが。」

「構わん。板は近々持ってくる。」

「分かりました。」

 頷き合い、途絶えがちだった食事を再開する。

 それにしてもなぜ表札なのだろうと考え、そういえば今掲げてあるものは祖父のフルネームのみだったと思い当たった。僕が新たに越してきたため、トータルとして姓のものと取り換えてくれるということか。

 しかし、ならば妻を亡くし娘を送り出した彼はわざわざ表札を自分一人の姓名に掲げ直したことになる。それは律儀などと簡単に括れるものだろうか?

(……止そう。)

 進んで話そうとしないのを見る限り、きっとあまり詮索すべきでない。祖父はそもそも口数が少ないのでその辺りの判断は難しいけれど。

 あるいは僕も、柚希に同じような感情を抱かせていたのかも知れない。そう思うと何だか力の抜ける笑いが浮かぶ。

「……学校はどうだったな。」

「あ、はい。緊張しましたが、平穏無事に。こちらは親切な方が多いですね。色んな人にあれこれと、ずいぶん助けられました。」

 返答半ばでもう分かったというように頷かれる。それでもなぜだか、嫌悪や圧迫感は覚えない。

「ずいぶん休んだろうが、勉強にはついて行けそうか?」

「はい、何とか。」

「ん。」

 そして昨夜と同じく、少しのお酒を僕にも注がれた。

 

 

 

 不思議なもので、コップ半分という変わらぬ量を飲んだにも関わらず今日は足元がふらついた。

 顔が熱く、脳がギアを落としたような感覚がする。それもずいぶん歯の滑らかなものへ。これが酔いというものだろうか。

 察したらしい祖父に風呂を勧められ、今日は洗い物もせず二階へ上がった。

 廊下で電灯のスイッチを入れる際、自室の手前にあるもう一つの部屋へ意識が向かう。

「……。」

 すべてのスイッチを押し、そちらの襖を開ける。蛍光灯が照らすのは床の間も設えられた和室だった。積み重なる座布団と、マッサージチェアと、色あせた鏡台を、ぼんやりした頭で見回す。

 そして片隅の電子ピアノが目に入り、それが目的だったのだとようやく気付いた。椅子がないので鏡台のそれを引き寄せて前に座る。

(まだ八時前だし、いいか。)

 何より電子なのだから音量調節が利く。電源を入れてトーンをグランドピアノに設定し、

そっと鍵盤を押した。ストロークも含め薄く、すべてデジタルで割り切られた音だ。

 いくつかの和音を試し、やがて二本の指を繰り返し行き交わせる。

 トリルは徐々に高音へと移り、気付けばメヌエットを象っていた。それも軽く指を慣らすつもりだったのに、結局は一曲を通し弾き切ってしまう。

 古く、使い込まれている印象を受けた。やはり母だろうか。ああ躍起になって僕へ押し付けた演奏の技術は、これで培ったのかも知れない。

 親子を巡りここへ帰ってきた指使いを、この電子ピアノはどんな思いで奏でたのだろう。

(……楽譜、一部くらい残しておくべきだったな。)

 荷物になるし、もう弾く機会もない。そう安易にすべての譜面を向こうで処分してしまったことを後悔した。

 やがて祖父から風呂が沸いた旨を伝えられる。僕は電子ピアノの電源を落として立ち上がり、着替えを用意するため隣の自室へと向かった。