二、 彼は誰と画

 

 

 

 遠く呼び掛けられた気がした。俄かに意識が輪郭を帯びる。

「……。」

 ゆっくりと薄く、瞼を開く。板目の天井と、見下ろしてくる箪笥。

 横を向くと、布団の端の向こうで柔らかに波打つ畳。

「あ……。」一度息を吐き、感覚を取り戻す。

 ずいぶんと深く眠った気がする。起き上がり、布団から出た。

 背伸びし、窓を開ける。まだペールブルーの残る朝の色と、微かな風。そして新しい空気が含む匂いと、密度の高い質感に気付いた。これも海が近いためなのか。

 幾分か目が覚め、机に置いた携帯電話に触れる。

(六時……少し前か。)

 祖父はもう出かけた後だろうか? 布団もそのままに、とりあえず部屋を出て階段を下りる。

 靴箱の上に、錆びついた鈴を結んだ鍵が置かれていた。

 先ほど呼び掛けてきた気配は、祖父の階下からの一声だったのかも知れない。台所へ入ると、土鍋のご飯と手鍋の味噌汁。どちらもまだ湯気を立てている。居間の窓に顔を寄せ外を窺うが、軽トラックも見当たらない。

 鍋を弱火で再度熱する間に顔を洗い、ジョン=レノンを想いながら髪を直す。

 台所へ戻り火を消し、昨日と同じ食器に装って卓に並べる。梅干しと昆布の小鉢と、味付け海苔のパックが置かれていた。

「……。」

 昨日今日に居着いた祖父の家で一人食事をするというのは、やはりまだ居心地が悪い。

 テレビの電源を入れると、朝のニュースが流れていた。女性アナウンサーは中東の戦争情勢と、都市部近くの海域で活断層が発見された旨と、関西の山中で遭難していた老夫婦が遺体で見つかった報を読み終えると、途端に満面の笑みを浮かべ十代のスポーツ選手を親しげに呼び、その功績を称えた。

 ようやく朝食を平らげ、シンクに置かれていた祖父の食器もろとも洗う。残った小鉢は冷蔵庫に入れ、布巾で台を拭いておく。

(いけない、もう七時になる。)

 元々ペースの遅い食事と不慣れな家事は、思いのほか時間を消費していたようだ。二階へ上がって制服に着替え、カバンの中身も確かめる。

 教科書は、前の学校で使っていた全てのものを持っていくことになっていた。重複するタイトルの照合だけでなく、どのような内容の本を使用していたかを確認したいということらしい。

 試しに持ち上げてみると、結構な重さだった。これを担いで三〇分歩くことになる訳か。

 げんなりする間もなく、チャイムが鳴った。布団がまだ敷きっ放しだけれど仕方ない。そのまま部屋を出ようとして、慌てて携帯電話を回収し、改めて階段へ向かう。

 

 

 

 玄関に歩み寄ると、昨日と同じシルエットが見えた。

「おはようー。」と呼び掛ける声。

「柚希ちゃん?」

「はーい。」

 返事と共に戸を開く。

「おはよ。」

 昨夜会った時はやはり風呂上りだったらしい。別れた時と同じ服装で、ただ胸には名札がぶら下がっていた。鮮やかな赤のランドセルとすっかり乾いたショートの髪で、より活発な印象を受ける。

「おはよう。あ、少し待って貰える? 戸締りしていたんだ。」

「うん。」

 総じてこの家の窓は小さいが、居間だけは出入り可能な掃き出し窓だ。施錠し、洗面所の勝手口も確認する。

「ごめん、大丈夫だった。」

 玄関に戻り、靴を履く。立ち上がると、

「たぶん傘持ってったほうがいいよ。」

 はい、と無造作に傘立てから一本を引っこ抜いて渡してきた。

「……ありがとう。今日は雨が降るの?」

「さあ。」

「ええ?」

「なんとなく。この辺じゃ、今くらいの時期からもう夕立が降ったりするんだよ。」

「そうなんだ。でも君は?」

 くるりと横を向く。ランドセル側面のホルダーに、折畳傘らしいビニールのカバーがぶら下がっていた。

「べつにいらないんだけどね。ぬれて帰ると怒られるから持ってる。」

「なるほど。」

 玄関を出て施錠し、鍵は言われた通り脇の植木鉢の下へ隠す。それを見ていた柚希は、「ばればれだねえ。」と呟いた。

「やっぱりそうだよね……。」

「まあ、どうせ泥棒さんはこんな町まで来ないよ。いこ。」

「うん。」

 道へ出て、昨日とは逆、祖父と散歩した方向へ歩き出す。

「……。」

 改めてこうして明るい場所で並ぶと、やはり彼女は発育が早いと感じる。身長が僕とそうは変わらないのだ。ランドセルの両ベルトを握って歩く様は小学生そのものだが、どうにも不似合に見えてしまう。

「ん?」

 なに、と顔を向けられる。

「いや、柚希ちゃんは背が高いなと思って。」

「千紘くんが小さいんじゃないかな。」

「……否定できないけど。」

「あははっ。」

 この子は本当に可笑しそうに笑うのだな。羨ましくなる。……今は若干、悔しさが勝るが。

「名前、呼びすてがいい。」

「え?」

「だって、そんなに歳ちがわないのにちゃん付けって。あたしばっかり子供みたい。」

「……なるほど。」

 言われてみればそうかも知れない。

「代わりにあたしも、紘兄ってよぶから。」

「ひろに……。」

 さらに虚を突かれ、顔を向ける。

 が、彼女もそれなりに不安らしく、こちらを見ずに僕の反応を待っているようだった。

「……何の代わりなのかが、よく分からないけど。でも兄(にい)≠チて響きは、正直慣れないな。」

「チビロちゃんのほうがよかった?」

笑って首を振る。「分かった、呼んでいいから。」

「じゃ決定。」

 どこか安堵したように彼女も笑う。小学生から笑顔を奪うべきではないと、ほんの中学生の僕でも思う。

「紘兄、今日の朝ご飯はなに食べた?」

 しかしこの子は、他所の食卓事情にしか興味がないのだろうか。

「ご飯、味噌汁と、梅干しと、昆布の佃煮。」

「足りたあ?」

「大変足りたよ。何なら残した。」

「痩せてるんだからもっと食べなきゃ。……と、赤。」

 横断歩道前で立ち止まる。そういえば、ここに来て初めての信号だ。

 重いカバンを担ぎ直し、周囲を見回す。小学生は数人居たが、今のところ中学生を見ていない。柚希の母親が言っていた通り、この辺りは彼女より年下の子供が多いようだ。まだ時間が早いこともあるだろうけど。

「宮口家の梅干しってどんなの?」

「ん……そんな代々作ってるものかは知らないけど。結構しょっぱくて、身が固く締まってたかな。」

「ふうん。」

「あ、青だよ。……僕は今まで、梅干しっていうと大玉で柔らかいのしか食べたことなかったんだ。だから正直、ちょっとびっくりした。」

「はちみつ味の甘いやつでしょ。あたしも好き。」

 車道を渡り追え、細い下り道に入っていく。

「蜂蜜で思い出したけど、」

「ん?」

「柚希は、ずいぶん日焼けしてるよね。」

「うん。」

 自身の露出した腕を見下ろす。

「皆それくらい焼けてるのかな。」

「んん、男子はね。女子の中だと、けっこう黒いほうかも。でもなんで、はちみつで思い出すの?」

 訝しげに首を傾げる。もっともな疑問だ。

「うん。ラズベリー漬けの蜂蜜が好きで、よく取り寄せてた。何というか、その色と似てて。」

「なにそれ。ラズベリーってきいちごだっけ。のいちご? ってどっちにしても、見たことないからわかんない。」

「こう、少し赤っぽい琥珀色というか、」

「こはく? むずかしいよさっきから。わかるように言ってくれないと。」

 確かにそうかも知れない。そこで考え、ふと小学生にもイメージできる例えを思いつく。

「つまり、煮過ぎたコンソメみたいな色だって。」

「……。」

「これは結構分かりやすくない? 痛っ。」

 さすがに腰を蹴られるとは思わなかった。

 

 

 

 

 見覚えのある大きめの国道に出ると、登校する生徒の数が増えた。疎らだが中学生の姿もあり、やはり少し緊張する。

 柚希は、道路の反対側を歩く同い年くらいの小学生に手を振っていた。その頭には、さっきまで無かった黄色い帽子を被っている。

「あれ。それって。」

「ん? ああこれ、いちおう決まりなの。」

 鬱陶しそうに指先で触れる。

「何で今まで被らなかったの?」

「だってださいじゃん……。みんな学校近づかないとかぶんないよ。」

 反射材を貼られた蛍光色の帽子は、確かにお洒落ではないだろう。

「かわりに紘兄かぶる?」

「遠慮しとくよ。」

 笑って断ると、柚希は舌を出して鍔を横に向けた。やけを起こしたのかも知れないが、それもずいぶんとしっくり来ている。

「そっちの方が似合うよ。悪戯盛りの男の子みたいで。」

「うれしくないし。」

 うかつに機嫌を損ねるとまた蹴られ兼ねないので、あまりからかうのは止そう。

「……あ。あそこで別れるよ。あたし向こうに渡るから。」

 そう言われ前方を見据えると、ベージュ塗りの歩道橋が数十メートル先で道路を跨いでいた。割りと大きめなもので、自転車用のスロープも設えられている。

「ああ、うん。ここまで来れたら、大体学校まで分かるよ。」

「ついてかなくてだいじょうぶ? まよったりしない?」

 僕はそんなに頼りなく見えるのだろうか……まあ、見えるか。体格も割りと近いのだし。

「制服について行くから大丈夫だよ。学校自体も、前に手続きで来てるから。」

「うん。」

「でも早い時間にありがとう。道も大体覚えたから、今日は確かめながら帰ってみるよ。」

「んー……うん。」

 目を逸らし、呟くような返事。何やら反応が薄いので、彼女らしからぬ挙動に思える。

 ただ年上からの礼にはにかんでいるのか、何か胸中で留めていることがあるのか。それを追及するきっかけも時間もなく、件の歩道橋へと辿り着いた。

 柚季は数段駈け上り、小さな手のひらを見せて振り返る。

「じゃあ。」

「うん、今日は本当にありがとう。気を付けて。」

 こくんと頷き、階段を早足で上っていく。ランドセルのカバーがばたばたと揺れ、伴って底面の固定具が金属音を鳴らした。

 その後ろ姿を見送りながら通り過ぎ、顔を前方に戻す。

 意識が宙ぶらりんになり、ようやくカバンの重さを思い出した。ずいぶん長く持ち歩いたにも関わらずその負担を忘れていられたのは、柚希のおかげだ。

 中学校の校舎が近づいてきたがさほど緊張していないのも、彼女が気軽に接していてくれたためだろう。祖父とだと、こうは行かなかったかも知れない。

(むしろ、余計に緊張していたかも。)

 つい浮かびかけた苦笑をそっと抑え、左折して脇道に入る。

 地図で知る分には、先の国道は町の波止場へ直行するルートで、あと少し進めば真っ向から海原が臨めるはずだった。

 にも関わらず、細い脇道へ逸れた今になって初めて潮の香りを感じるというのは、やはり不思議な気がする。車の排気ガスなどが雑然とさせるのだろうか?

 海辺の町への思考というその新鮮さに感(かま)けている内に、目的地である中学校へ着いた。携帯電話で時間を確認する。

(思ってたより早いか。)

 とは言えぼんやりする余裕がある訳でもないので、開かれた校門をくぐる。

 ここに来るのは二度目になる。見渡して正直、僕の通った小学校よりも小さく、古い壁はあちこちが黒ずんでいた。だが造りは遥かに頑丈そうで、佇まいにもどこか、芯はしっかりと残っているというような力強さを窺える。

 正面玄関から校内へ入った。警備員どころか監視カメラすら無く、受付を兼ねる中年女性の事務員は声をかけてようやく反応するほど。

「あの、おはようございます。僕、」

「はい。あらぁ、宮口君だった? おはよう。一人? 迷わずに来れた?」

「あ、はい。あの、広田先生は……。」

「ちょっと待ってね。」すぐに内線で呼びかけてくれる。

 靴を脱ぎ、とりあえず前回同様に外来用の下駄箱へ。傘も段に引っ掛けて、持参した新品の上靴を履く。前の学校ではスリッパを使っていたが、こちらの方が不意に脱げにくくていい。

「先生すぐ来るから。」

 窓口から声を掛けられ、礼を返す。

「一〇分前行動は素晴らしいね。」

 次いで玄関に大声が響き、驚いて振り返った。廊下の角から、30代半ばほどの男性教師が現れる。

 四角いフレームの眼鏡と短い髪に、くっきりとしたほうれい線。

 大柄ではないが、動きがきびきびとしている。前回手続きで訪れた際にも、「担任となります広田です。わたくしが責任を持って、千紘君を受け持たせて頂きます。」と頼もしい挨拶を受けたが、とにかくあまりにも声が大きい。

「あ、おはようございます。」

 本当にすぐ来たと思いつつ、頭を下げる。

「おはよう。早いね! いいぞお。」

 発音だけは明瞭な言葉に微笑み返すと、なぜか二の腕を掴まれ、次いでばしばしと叩かれた。

「まず先生たちに挨拶しようか。おいで。」

 大股で歩く彼に先導され、職員室へと向かう。

「遠慮はいらないから、大きい声で挨拶しちゃってよ。」と僕に伝えるその声がまず大きい。おそらく眼前の職員室内にも届いているだろう。

 がらりとドアを引き開けると案の定、室内の全員がこちらを見ていた。さすがに息を飲んで、ゆっくり声を吐き出す。

「あ、の。おはようございます、二年生の宮口千紘です。……えっと、よろしくお願いします。」

 よく分からない拍手と、「よろしくお願いします。」の返答。全部で一五人くらいだが、髪を金色にまで脱色した女性もいるのには少し驚く。

「あれ、一人? できたの?」

 室内を見渡せる正面席に座っていた男性教師が、僕の背後に目を遣りながら問う。確か教頭先生だ。

「はい。祖父は忙しいようで。」

「それは教頭先生、この子はもう一人前なんだから。なあ!」

 言いながら広田先生が、なぜか僕の胸元にノックを浴びせてくる。喘息持ちのこちらとしては、冗談でも止めて欲しい。

「は、はい……。」

「じゃあ千紘君、こっちおいで。」

 さらに先導され、職員室内を会釈しつつ縦断していく。仕切りの反対側に、応接セットの体でソファが向かい合っていた。

「座って。教科書は持って来た?」

「はい。」

 カバンを少し持ち上げる。

「OK。じゃ、国語から出してって。」

 彼が向かい側に座り、ぱちんと手を叩いた。

 

 

 

 国語から道徳まで全ての教科書を、それぞれの担当教師に見せ、説明する。

 同じものを使っている場合はページ数の確認だけで済んだが、異なる場合はどの内容をどの辺りまで習っていて、どの程度理解しているかを示さなければならなかった。それを単純に、一〇科目分。

 すべて終える頃には、すっかり登校の刻限間近まで迫っていた。早めに来ていなかったら、まず間に合わなかっただろう。

「やあやあ、お疲れさま。」

 一巡し、道徳について話し終えた広田先生がまた対面で笑う。

「きつかったろうけど、もうHR始まるから教室に行こうか。」

「……はい。」

 登校してまだ二〇分ほどとは思えない疲労を抱え、再び彼に従って歩く。

 階段で二階へ上り、渡り廊下で反対側の校舎へ。広田先生が力強く手を振ってずんずんと先を行くので、僕も早足で追った。

「ここがA組の教室だよ。あ、向こうはBね。」

 見ると、2−Bと書かれたプレート。二年生は二クラスだけで、目の前の教室には無論2−Aとある。

 廊下側の窓から数人が顔を出していたが、彼に窘められてすぐに引っ込んだ。

 そっと息を整え、頷く。

 

 

 

 

 色が褪せていく様を見た気がしていた。

「はい、では自己紹介を。」

 促され、僕も教壇に立つ。ぎぎい、と足下が軋んだ。

 顔を上げると、三〇数人分の視線。目の遣り場に困り、教室の中心辺りにピントを置く。

「宮口千紘です。市内から来ました。よろしくお願いします。」

 名乗り、会釈する。

 教室は一瞬の沈黙を挟み、やはりよく分からない拍手に包まれた。大声で返事し、笑いを起こす者すらいる。

 ずいぶんフランクというか、気安い。歓迎して和ませてくれるのは勿論ありがたいけれど、どちらかというと転校生を前に、ただ舞い上がっているように見える。

「あの、席はどこに座れば……。」

「ああ、とりあえず今日はあの空いてる所に座って。」

 端っこで悪いね、すぐ席替えするから。その言葉に送られながら教室を突っ切る。窓側の最後列だ。

 正直替えて欲しくないと思いつつ、そこに腰掛けてカバンの教科書を机に詰めていく。

 それを終えると、前の席の男子生徒がこちらへ振り返っていた。

「や、よろしく。」

 ニスで黒光りする木材を連想させるほど日焼けしている。坊主頭なので、野球部か何かだろうか。

「あ、よろしくお願いします。……?」

 なぜだか周囲が軽く笑うので、気恥ずかしくなる。イントネーションでも可笑しかった?

 居た堪れなく、咄嗟に左手の窓を見る。

 ベランダ越しに向かいの校舎があり、見下ろせば花壇の豊かな中庭。

(屋上からなら、眺められるかな。)

 海の見える学校、というものを結構楽しみにしていたのだが、さすがに教室からは臨めないようだ。まあ授業が上の空になるだろうし、潔く諦めよう。

「じゃあ出欠取るついでに、皆も千紘に自己紹介をしよう。」

 広田先生の弾んだ言葉に、生徒たちの非難めいた声が返る。

「呼ばれたら返事して、教壇で名前とまあ、趣味でも言おうか。」

 さらにブーイング。僕も人前は嫌いなので、何だか申し訳なく思う。

 そんな生徒の反応には慣れ切っているのか、先生は名簿を持って窓際に寄り、さっさと名前を呼び始める。

 男子から一人ずつ教壇に上がり、言われた通りに名前と趣味を口にし、早足で自分の机へと戻っていく。

 先ほど各教科の先生から自己紹介を受けた時にも思ったが、一度ではとても覚えられない。おまけに男子生徒は皆肌が黒く髪が短く、サッカーが好きか野球が好きか釣りが好きかという、ほんの僅かなカテゴリーしか固有していないのだ。

 そして女子へ移る。柚希ほどではないが、彼女らも日に焼けている。大抵髪は結んでいて、稀にストレートパーマを掛け、不自然なほどまっすぐに下した者も居た。

 先刻の色褪せていく様を、確かめさせられているようだ。

(……誰にも、頼めそうにないか。)

 実のところ、こちらへ越して最も気がかりだった存在の有無が、彫刻のモデルとなってくれる相手だったのだが。僕の独裁的な感性に届く人間は、どうやら見当たらない。

 ただ諦観へ馴染ませる儀式のように、また一つ拍手を返した。

 

 

 

 途中でチャイムも鳴り、少し授業時間を潰しつつ、全員が自己紹介を終えた。

「ちょっと食い込んだな。じゃあ急いで国語始めよう。」

 広田先生が時計を確認し、教壇へ戻る。職員室でも感じたが、彼が国語を担当するのは意外に思える。どう見ても体育教師だ(後でサッカー部の顧問とは知るのだが)。

 すかさず誰かが、「先生、宮口くんの歓迎会は?」と言い、それに数人が続く。

「やろうよ。」

「こっちに来る転校生とか珍しいし。」

 これまた楽しそうに生徒達を戒めようとしていた広田先生の目が、一瞬僅かに曇った。こちらへ来た珍しい転校の原因でも過ったのかも知れないが、すぐにまた声を張る。

「小学生じゃないんだから。帰ってから皆で遊びにでも行きなさい。じゃあ147ページ。はい、開く開く!」

 さらりととんでもない提案をしつつ、ぱんぱんと手を叩いた。不承不承、生徒達が従っていく。

 教科書に掲載された物語の題を板書し、それを全員がノートに写す。

「……。」そのタイトルには見覚えのある僕も、やはりペンを取った。

 

 

 

 過去に習った内容ながら、教師による着眼点は少し違っているらしい。意外な部分を掘り下げていく彼の授業に興味を覚えつつページを捲っていると、

「……ね、」突然耳元へ囁く声。

「っ。」

「あ、ゴメンびっくりした?」

「いや……。」吊り上がってしまった肩を下ろす。前方の男子と左方に窓に気を取られ、右方の存在をすっかり忘れていた。

 顔を向けるとその隣席には、少し身を乗り出した女子生徒が一人。長めの髪をひっつめていて、顔が面長に映えている。

「あ、私ね、真島っていいます。」

「……はい。」

「って、名札見れば分かるよね。」

 自分の左胸の、校名と氏名を刻んだプラスチックの名札を摘まんで眺める。ちなみに僕はまだそれを貰っていない。

「転校生くんには便利なんだ。でもこれって、普段はぜんぜん役立たないよね。」

「……まあ。」

 よね、と言われても。

 彼女は僕の方を見て笑う。

「宮口くんて、ここの人とぜんぜん雰囲気ちがうね。」

「そう、ですか?」

「うん。あはは、そういう返事とかから違う。ここの男子だったら、二言目には大声だもん。」

「……そうなんだ。」

「ていうか、ヘンな先生でごめんね。バカだから、あの人。」

 ずいぶん親しそうにそう言うので、とりあえず否定して彼女へ目を向ける。しかしなぜ今話しかけられたのだろう? 

「ねえ、どこの学校から来たの?」

 瞳と、

「それって、どんなところだった?」

 肌と、

「大きいんだ。生徒の数とかどれくらい?」

 髪と、

「そんなに? ……すごいなぁ。」

 声と。

 受け答えしつつ、どうしてもそれらに意識が傾く。

 陰一つ見つけられない。どこまでも躍動的で健康的で、まるで冗長なその先すらが窺えられそうな。

 結局彼女は、先生に注意されるまで話し続けた。

 

 

 

 

 どうやら転校生が本当に珍しいらしい。昼休みには、わざわざ隣のクラスから僕に話しかけに来る生徒もいた。

 常に無難な返答をするよう心掛ける。極力干渉されたくないが、下手な態度を取って苛められるのも避けたい。

 だから今は、多少無理をしてでも笑みを絶やさずにしておく。時折こぼれる自分の笑い声はどこか遠く、他人が発したもののように聞こえる。

 教科書の異なる授業の場合は先ほどの真島という女生徒に見せて貰い、また小声で質問攻めにされながら過ごす。

「宮口くん、塾って行ってた?」

「あ、家庭教師がついてたから……。」

「すご。じゃあ部活とかしてなかったんだ?」

「いえ、してた。彫刻が好きで、美術部を。」

「ちょうこく。」

 彼女が目を丸くする。

「……そっか。男子美術部とかもあるところだったんだね。」

「男子っていうか……え?」

 恐ろしい言葉を聞いた気がし、思わず向き直る。

「という、と?」

「うちの学校じゃ、美術部は女子だけだよ。それも、私を入れて四人だけ。」

「……四人。」

「うん。男子はね、サッカーか野球か柔道か水泳なの。女子にも水泳はあって、あとバレーかバスケットか吹奏か、美術。まあ美術部って言っても名前ばっかでね。ビーズでアクセサリー作ったり縫い物したりで、手芸部に近いかな。おまけに三年生がいないから緩み切ってて、最近は模写用の古い漫画読みながらお喋りとかしちゃってるよ。」

 絶句する。

「あ、でもね、ちゃんと絵を描く子もいるよ。一年生のまゆって子。ただ身体がすごい弱くって、あんまり学校に来ないみたいだけど。」

「……。」

 一瞬救われかけ、また改めて奈落へと叩き戻された。

 いやそもそも、男子である僕が入部できるかすら分からないのか。

「……大丈夫?」

 愕然としている僕の顔を、そっと覗き込んでくる。

「ああ、うん。いや……そうなんだ。いろいろ教えてくれてありがとう。」

「ううん。あとね、二年のうちは絶対どっかの部活に入れられるよ。」

「え。」

「ここの学校、三年生になるまでの火、木、土曜は、強制的に部活しなきゃなの。帰宅部ってないんだよ。」

 なんか小学生のクラブみたいだよね。今時って感じしない? 彼女はそう続けたようだったが、僕にはほとんど聞こえていなかった。

 

 

 

 放課後となり、特に積極的な男子生徒が数人、またこちらへ群がって来た。

「ちょっと話したんだけど、宮口くんも今日うち来ない? 皆でゲームとかしてさ。」

「……ゲーム。」

 テレビゲームか。僕は遊んだことが一度もないのだが、それを言うと前の学校でも驚かれたので、口にしない方がいいのかも知れない。

「ああ、今日はちょっと。部活のことで先生と話したくて。」

 一応は素直な困り顔でそう答えると、おお、と彼らはざわめいた。

「どこ入るの?」

「前の学校で美術部だったから、ここのに男子でも入れるように頼もうと思って。」

「美術?」

 素っ頓狂な声。気付けば周囲を取り巻く人数が増えている。

「やめとけよ。女ばっかでつまんないって。それより水泳どう?」

「柔道とかしたことない? 先輩優しいから楽。」

「あはは、えっと……。」

 大体今日が火曜なのだから、部活動の日だと思うが。それぞれがサボってまで遊びに誘ってくれるというのは、果たして喜ぶべきなのだろうか。

「いや、それが僕スポーツとか、全然だめなんだ。だから足引っ張りたくないよ。喘息持ちだし。」

「……。」

 と、途端に静まり返り、次いでゆっくりと頷かれる。

「……? え、」

 何か変なことを言っただろうか? そう問おうとした時、隣席の真島さんが笑いながら立ち上がった。

「ほら宮口くん。話しに行くなら早くヒロセン追いかけよう。あいつサッカー部の顧問だから、校舎いるうちに追いかけないと。」

 美術部として一緒に頼んだげるから。そう言われ、僕も席を立ってカバンを持つ。

「あ、うん。……じゃあそういうことだから。また誘って欲しい。」

 一応はそんな社交辞令を残す。

 やはりどこか呆然としながらも、彼らは再度頷いてくれた。

 

 

 

 廊下に出て、手招く彼女を追う。

「……僕、何かおかしなこと言ったのかな。」

 さっきの彼らの反応が気になるので訊いてみた。「ううん。」と首を振りつつ、彼女はまだ笑っている。

「ただね、スポーツができないだなんて、ここの男子は絶対誰も言わないんだよ。皆それが一番のステータスだと思ってるから。運動音痴の子だって、無理してでもエースを気取ってるの。」

「えっと、そうなんだ。」

「ところが宮口くんは、あっさり言っちゃった。スポーツはだめで、足引っ張っちゃうって。それで皆呆然として、図星を白状された子もいて、ああなっちゃったんだよ。」

 あまりピンとは来ないけど、おおよそ分かった気がする。

「……まずかったかな。」

「ん、なんで?」

「あっけらかんとそれを肯定するのって、良くない目立ち方をしたんじゃない?」

 彼女は隣を歩く僕を興味深そうに眺め、首を振った。

「宮口くんさ、田舎に偏見持ち過ぎだよ。苛めとかないって、今時。」

 言い当てられ、若干どきりとする。

「あ、いや、前の学校ではまだそういうのあったからさ。下手に目立つとまずかった。」

「ふうん。……あ、ヒロセンいたよ。」

 次いで、僕までびっくりするような大声で呼び止める。

 渡り廊下から曲がる寸前だった広田先生が、こちらへ振り返った。

 

 

 

「部活。」

 彼は眼鏡の奥の小さな目を、ぱちりと広げた。

「……そうか、意欲的だねえ。今日は初日だし、その話はもう少し慣れてからでいいかと思ってたよ。」

 気配りはありがたいが、部活が強制参加と知った以上は先手を打ちたい。知らぬ間に運動部へ放り込まれるのだけは避けねば。

「ただ、美術部か……。いや、実は千紘には、俺のサッカー部に入って欲しくてね。」

 そしてそれが杞憂ではなかったと悟る。

 大体そのような部活制度は転入が決まった時点で教えておいて欲しかったが。あるいは僕の事情が特異すぎてそれに目を奪われていたのかもしれない。ならば咎めようもないし、ただ言葉を選んで辞退しよう。

「先生、僕は喘息持ちで……。」

「ああ。まあだからこそ空気のいいここで、ちょっとでも運動に慣れて貰おうかとね。顧問をやってるから目も届くし。……病気だからと言って、あまり中に籠って欲しくないしな。」

「……。」

 色んな意味を含めたかったのだろうが、汚い言い回しだ。

 僕が汗を流して走り回ることを覚え、日焼けした筋肉をつけ、皆と歯を見せて笑い合えば、すべてがうまくいくとでも思っているのだろうか。

「いや、もちろん強制はしないよ、うん。でも美術部は基本、女子の部活ってことになっててね。」

「サッカー部のマネージャーは、男子がやってるんですか?」

「……いや、じゃないけどね。」

 渋面をつくり、顎を撫でる。

「ただ真面目に美術部で活動したいなら、やっぱり難しいと思うな。顧問をやってた先生が、今年から三年生の学年主任になって忙しくてね。それに二年生ばかりだから、教えてくれる先輩もいないだろうし。」

「許可を頂ければ、僕がその先輩になれると思います。お願いできませんか。」

 広田先生と、隣で口を挟めずにいた真島さんが顔を見合わせ、笑う。

「……そうか。いやあ、意外と熱いな。美術部なんて、男が進んでやるものじゃないと思ってたが。」

 すう、と歯の間から息を吐く。

「分かった。顧問の先生には俺から頼んでおく。でもまだ急だからな、入部届を貰って、出して……正式な入部は週末近くになるだろ。まあ今日は見学でもしとくといいよ。」

「……ありがとうございます。」

 ようやく安堵する。僕に続いて辞儀した真島さんに、「じゃ、千紘に部活紹介頼めるかな。」と声を掛け、また歩き始める。

「気が変わったらいつでもサッカー部に来ていいぞお。」

 そう付け加え、彼は階段を下りていった。

「よかったねー。……でも宮口くんて、実は怒ると怖そうだね。ヒロセン鈍いから全然だったけど、私ちょっとヒヤヒヤしたよ?」

 彼女の言葉に、慌てて首を振る。

「いや、そんなことない。」

「ほんとかなぁ。」

「本当、本当に。」

 弁明する僕の顔を眺め、やがてヘラりと笑い、「じゃ、部活行こうか。」と歩き出す。どうやらただおちょくられただけらしい。

 男などより遥かに度し難く思う。

 

 

 

 

 南校舎の三階最奥にある美術室へ案内され、扉を開く。

 逆さの椅子を乗せられた机の並ぶ一角に二人の女子生徒が居て、真島さんに続き入室してきた僕に目を丸くした。こちらにも見覚えがないので、クラスメイトではないはず。

 真島さんから、僕が転校生であり、男子生徒ながら美術部への入部を許されたという説明を受けると、彼女らは戸惑いつつも歓迎してくれた。

 同級生ながら二人ともB組の生徒らしい。ショートカットの方が渡瀬といい、部長を務めているとのこと。髪を二つにまとめ、フレームの太い眼鏡を掛けているもう一人は、井ノ崎と名乗った。

 僕も今日何度目か判然としない自己紹介を返し、とりあえず室内を見て回る許可を貰う。

 ここはいわゆる角部屋に位置し、割かし広い。ざっとの目算だが、隣接する準備室も含めると三教室分はありそうだ。

 部屋の正面と左側はほぼ壁でなく、ベランダ付きのガラス窓で連なっている。その向こうには、教室の並ぶ第二校舎からでは臨めなかった海が広がっていた。角の大きな柱で途切れながらも、続くもう一辺の窓へと風景を繋げている。

 脇で束ねられた、裾の長いカーテンが揺れる。美術室とは絵具や画用液の匂いで籠りがちな場所だけど、ここでは潮風がそれらを洗い流してくれるらしい。

「……いい所だな。」

 思わず呟いていた。僕の挙動を見守っていた三人が、くすぐったそうに笑う気配がする。

 次いで反対の、建物基部側に目を向ける。美術準備室へ続くドアの傍になぜかライトアップピアノがあり、壁際に並ぶ石膏像の後ろにはベートーヴェンやスターリンたちの肖像画が貼られていた。

「……。」

 不可解さに目を奪われていると、後方から渡瀬部長の説明が届く。

「音楽室に新しくオルガンが届いてさ、二つは置けないからって、こっちに古いピアノのほう持って来られちゃったの。」

 それに続いて真島さんと井ノ崎さんも口を開いた。

「同じ三階で広い部屋って、ここだけだからね。でも何か最近、だんだん浸食されてきてない?」

「そのうち物置にされるかも。」

「……。」

 祖父の家に引き続き、というか。思ったよりもピアノには困らなそうだが、素直には喜べない。半ば呆れながら歩み寄る。

 ずいぶん古いようだが、埃は積もっていない。ふと鍵盤蓋を持ち上げ、指を通してみた。所々白鍵が緩んではいるものの、そうと分かるような調律の狂いもないようだ。

「……誰か弾く人が?」触れたまま問う。

 ピアノの黒い表面に映った三人が顔を見合わせ、やがて真島さんが、「まゆだよ。」

「さっき授業中に言ってた?」

「そう。その子がたまにね。」

「……へえ。」

 振り返り、「えっと、今日は来てないんだ。」

「少なくても週に二日は休んじゃう子だから。」

 渡瀬部長の言葉に驚く。

「そんなに身体が弱い?」

「うーん、心臓が特に悪いみたい。昔から運動とかできないし、あんまり近くで騒がないようにって全学年で徹底されてて、小学生時代から変な意味で有名人だったからね。学校が居心地いいってこともないんじゃないかな。」

「……なるほど。」

 狭心症か何かだろうか?

 しかし、その一年生を煙たがっている訳でもなさそうだが、それなりには扱いづらいようだ。どこか見馴れた、困惑気な表情を浮かべる彼女らは、微笑ましくすら思える。

「あ、そういえば。まゆのスケッチブックがあるはずだ。」

 ふと真島さんが立ち上がり、準備室へ入っていく。残った二人が顔を見合わせ、そして僕に目を向けた。

「宮口くんて、絵、描くの?」

 美術部の部長である渡瀬さんが、不思議そうにそう問う。もう一人の井ノ崎さんは口数が少ないようだが、同じく興味深そうにこちらを見ていた。

「……一応。本当は彫刻がメインなんだけど。」

「彫刻って、像とか彫るやつ?」

「うん。あ、さすがに等身大じゃないよ。縮小したり、部分的なものとかをね。」

「へえ……。」

 しっくり来ない様子で、彼女らは頷いた。

「ヒロセンに啖呵切っちゃったから、早めに成果を見せなきゃだもんね。」

 聞こえていたらしい真島さんが、一冊のスケッチブックを手に戻ってきた。

「……売り言葉でもなかったのに、僕が勝手に買い上げたようなものだったけど。」

「ふふ、確かにだ。」

「何それ?」

 部長の問いに、彼女は笑ったまま答える。

「悪いけど今日からトランプできないかも。彼、この部活に燃えてるんだ。」

 トランプ……。呆れる僕に視線が集まり、慌てて首を振る。

「あ、いや、何も巻き添える気はないよ。僕が勝手に頑張ろうと思ってるから。」

「もちろん巻き添えられる気もないけど。まあまあ、見てごらんって。」

 悪戯っぽく言いながらスケッチブックを渡してくる。

「……。」

 不在者のものを勝手に見ていいのだろうかと躊躇するが、まあ絵なのだし後ろめたさはないと思うことにし、開いた。

 一ページ目は植物のデッサンだった。野草だろうか? 変わった形の小さな花だ。全体に鉛筆を行き渡らせていて、その花弁が純白であることを紙の色で表している。

 捲ると、様々な角度から見たいくつもの手。どれも若い女性のものに見える。数枚のトランプ札を持ったものや制服の袖まで描かれたものもあり、同級生を写生したのだと分かる。

 先のライトアップピアノの絵もあった。無論真っ黒だが透明水彩の絵具を使っており、重くはない。乾かないうちに一度閉じてしまったのか、反対側のページに黒が移っていた。

「上手でしょ?」

 いつの間にか部員たちが、脇や反対側から覗き込んでいる。

「うん。」素直に頷く。

 鉛筆、絵具、木炭でたった一冊のスケッチブックに際限なく描き込まれているけど、どれもが細かくて独特だ。なのに線はやけに正確で、画力自体はきっと僕より上だろう。ただ、

「……面白いな。」

 抽象的な森の中、八頭身の黒いウサギがテーブルに腰掛けて優雅にティーカップを傾けている絵のページに差し掛かり、つい呟く。三人も賛同した。

「まあちょっと変わってるよね。せっかく上手なのに、たまに意味が分かんない。」

 確かに。

 若干間をおいて、井ノ崎さんが口を開いた。

「あの子、しばらくアリスってあだ名で呼ばれてたでしょ。それ結構嫌がってたみたいだよ。あたしの前でぶつぶつ愚痴りながら、三十分くらいでそれ描いちゃったんだ。」

「へえー。」

「初耳。」

「……へえ。」

 一息遅れて、僕も感心する。突発的に描いたにしては、線が走っていない。むしろ他の絵よりも静かで、穏やかなタッチにすら見える。

「……アリス。」

 ふと、スケッチブックの表紙を確かめる。左下に、1−A 今井繭奈≠ニいう署名。

「今井……ええと、」

「マユナ。」

 読みの補足に頷く。それでまゆ、か。

「でもそれなら、どうしてアリス? 有栖川さんとか、アリサさんって名前じゃないのに。」

「あはは。だって白くて細くて、不思議ちゃんだからだよ。」

「それに、ピアノも弾くし。」

「……あ、そうなんだ。」

 よく分からないが、それは彼女らにとって納得し得る理由らしい。

「……で、どんな? 宮口くん。」

 今日はどうするかと、真島さんが問う。僕はアリス≠フスケッチブックを閉じ、机に置いた。

 この子の画力が高いことは分かった。となると、今から彼女に追いつくべく絵画へ取り組むよりも、僕は僕の活動をしたほうが良さそうに思える。

「うん。早速、彫刻を始めたいんだけど……。」

 ただ美術室を見渡す限りここの資材はありふれたもので、特徴的なものは無さそうだった。やはりせっかくなら、この土地特有の素材から造りたい。

 その旨を部員たちに伝えると、彼女らは思い悩むように腕を組んだり、頭を抱え始めた。確かに、この町ならではの像を彫れる物質≠突然尋ねられても、すぐに浮かびはしないだろう。

「……流木はどう?」

 それでも真っ先に顔を上げたのは、やはりというかなんというか、先ほどから率先して発言する渡瀬部長だった。

「流木。」

「そ。海から流れ着いた木の枝とか、知ってるでしょ? この学校の裏にある浜に行けば、いっぱい転がってるよ。」

 彫刻に向いてるかは分かんないけどと、そう付け加える。

 流木というものの存在と、人がそれをアートに使うこともあるとは確かに聞いたことがあるが。しかし昨日今日初めて海を見た僕には馴染みがなく、あまりピンと来なかった。

「えっと……それって、形も何も分からない、本当にただ漂着した枝ってことだよね。」

「うん。どうだろ?」

 なるほど、面白いかも知れない。

「出来れば直に見てみたいんだけど……。一度連れて行って貰っても大丈夫かな。」

「もちろん。」

 微笑んだ部長は咳払いし、では、と声のトーンを張る。

「えー、今日の部活動は、皆で流木拾いです。」

 その宣言へ拍手を返す二人に、とりあえず僕も倣った。