幾度と繰り返す過程。エンジンの音が高まり、加速する。がたがたと細かな振動の後、ギアが移り変わり少し治まる。揺りかごのように思えないでもないが少し騒々しく、過ぎた午睡を取り戻すには時間も遅い。

「こうも粗末な車は慣れないでしょう。」

 そんな声にも応えず、傾げた頭を窓ガラスに押し付けたままに流れる景色を眺めていた。味気なくなっていく街並みと、反して鮮明になっていくよう見える新葉の色。

 そしてふと、自分へ向けられた言葉だったのだと気付く。

「え。あ……何ですか?」

 狭い車内で、そもそもが二人乗りの軽トラックなのだから疑いようがなかったのに。慌てて聞き返すが、運転席の彼は首を振った。

「いえ、大したことでは。」

「……そうですか。」

 そしてまた、喧しい沈黙へと帰る。

 さして理由はないが気付かれないよう、こっそりとポケットの携帯電話を開く。この車に乗り込んでから、もう三時間近くが経っていた。

 軽トラックの、全く倒れずに直角姿勢を固持する座席は、お世辞にも快適とは言えない。シートにも柔らかさというものは凡そ見い出せず、肉付きの乏しいこの身体には少しつらい。

(もう贅沢は言えないか。)

 内心そう呟いて納得をしかけ、やがて自ら打ち消す。今だってきっと、十分に贅沢なのだ。

 後ろの荷台には、僕の所持品が積み込まれている。こうして新天地へと運ばれ、そこで新たな生活を始められるというのは、結構な幸福である筈だ。

 思えば僕は、こうしたチャンスを何度与えられて来たことだろう。

 少し視点を持ち上げると、遠い太陽によって陰陽に染め分けられた分厚い雲が見えた。

 

 

 

無題#01.

 

 

 

一、 誰そ彼の路

 

 

 

 生まれてすぐに孤児となった。無論、記憶そのものが養護施設から始まる僕にとっては、未だピンと来ない些事なのだが。

 そこで六年間を過ごし物心もつき始めた頃、今も姓を借る宮口≠フ家へ養子として引き取られた。

 施設の院長と長く世話をしてくれた職員に背を押され、父と母の笑顔に迎えられた。僕は皆のよう泣き喚くことはなく、教えられた通りに「おとうさん、おかあさん。」と挨拶した。

 その宮口家は事故で子供を亡くしており、養子を求めることに不自然さは見当たらない中高年の夫婦だった。が、如何せん彼らは裕福で、あちこちに顔の利く資産家でもあった。

 今までと水準も息苦しさも全く違う生活に慣れた頃、それは始まった。

 親による性的虐待と、そう括られるのが僕にはどこか大仰に聞こえたし、何より大人とは子供にそれを与えるのだと認識していた。どこでもそういうものなのだと、食事や風呂と同じく生活に必要なプロセスで儀式なのだと、ずっと。

 やがてそれは露見したが、僕の被虐認識の薄さと彼らの地位、また遡れば施設にまで影響が及ぶことから、警察沙汰には至らなかった。

 ただ僕は別の施設へ移されることになるだろうと思い、そうならないよう親族たちへ保護を求めた。無論血縁などない彼らはそれを拒んだが、隣県との境で一人暮らしをしている母方の祖父だけが、唯一応じてくれた。

 僕は十四歳で、彼の元へ向かう車に揺られていた。

 

 

 

 ずっと辿ってきた国道に別れを告げ、入り組んだ小道へと曲がった。

 住宅地ではあるようだけれど、畑や丘陵も家々に迫る割合で広がっている。何より、坂の中で立ち並ぶ町≠ニいうものがとても不思議な光景に思える。

 飽きずに外を眺めていると車はふと減速し、やがて路肩に停まった。

「もう、お待ちのようです。」

 彼がシートベルトを外し、ハザードランプを点けて言う。

「……あの方ですか。」

「ご挨拶を。」

 促され、僕も車から降りる。小ぢんまりとした家の門前に、肌着姿の老人が一人立っていた。

 歩み寄る。残った頭髪はほとんどが白く、深い皺はさも当然そうにその顔へ居着いているが、長く笑ってできたものではなさそうだった。

「初めまして、千紘です。どうもお世話になります。」

「……。」

 名乗った僕をじっと見つめるのは、今までの誰とも違う眼差しだった。その違いが何であるかを悟る前に、彼は口を開く。

「……え?」

 聞き返すと、再度しわがれた声で言い直される。

「散歩に、行かんかね。」

 虚をつかれる。散歩? 咄嗟に返答できずにいると、下がっていた運転手から後押しを受けた。

「どうぞ。荷物は私が運んでおきますので。」

 確かに大げさな家具もなく段ボール箱ばかりだから、一人で十分ではあるだろう。決して力の強くない僕はかえって邪魔になり兼ねないので、同意することにした。

 祖父は玄関を開け、「二階の奥の部屋に頼んます。」と運転手に伝えてから、僕の脇を通り抜けた。

「あ、……彫刻の入った箱もあるので、慎重にお願いします。」

 彼にそう注文を追加し、そして既に歩き始めている祖父を追う。

 

 

 

 祖父の足取りは、ゆっくりだけれどしっかりとしたものだった。僕は周囲を見回しつつ、数歩遅れて続く。

 似せたように木造の民家が疎らに建つ、高さのない町並みだった。市街と違い用途のあるものばかりが目につくが、ただどの軒先にも植木鉢や盆栽が当然の如く並んでいる。

「……。」

 不思議な散歩だった。祖父は僕がついて来ているかを時折確認するだけで、何かを説明するどころか一言も発さない。僕が道中で何か気になるものを見つけたり、訪ねたいことが浮かんでも、それを黙殺するように歩き続けた。

 どうやら何かを言うべきじゃないのだと思い、ただ後に従った。

 

 慣れない坂道を登り切る頃、祖父は初めて立ち止まった。僅かに振り返るその背中の向こうに、僕は海を見た。

 雲の多い夕暮れの中、太陽は重力に従うよう水平線を目指している。動きゆく様を目で追える気がしたが、その軌道も流れる雲も、とても穏やかなものだった。

 絶句したままでいると、祖父がぼそりと口を開いた。

「どうな?」

「あ、……綺麗、です。生まれて初めて見ました。」

「海を?」

「はい。」

 彼の隣に並び、ふと視点を落とす。連なる蜜柑畑の斜面が行きつくのは、ほぼ磯に近く遊泳は難しそうな水辺。波が、何かを呼びかけるような静けさでそっと繰り返していたことにようやく気付く。

 緋色の面に青紫の陰影が寄り添う海の夕景を、呆けたように眺めていた。

 やがて祖父がもう一度問う。

「海は、どうな。」

「……よく、分かりません。何だか……大きくて。」

 自分で言って、笑ってしまう。何て無防備な時間なんだろう?

 祖父はつられて笑うことこそなかったが、凪の如く静かな表情の中で、目元だけが僅かに和らいだようにも見えた。

 

 

 

 

 夕日を見届けると、空は急速に彩度を落とした。

 やがて祖父が来た時と同様に黙って歩き始めたので、後に従って引き返す。

 家へ帰りつくと運転手の彼が待っており、「荷物も済みましたので、そろそろ私はお暇致します。」と告げて車に乗り込んだ。

「お世話になりました。どうもありがとう。」

 閉じたドアへ駆け寄り、礼を言う。ここまで連れて来てくれた彼はそっと振り解くよう会釈し、やがてエンジン音を上げて走り去って行った。

 振り返り、改めて見上げる。ささやかな敷地に建つ家はやはり小さく、その脇には今見送ったものと区別のつかない軽トラックが停まっていた。

「……、あ。」

 祖父が一瞬腕を持ち上げ、何も言わずに家へ入った。手招いたのだろう。開いたままの戸へ、僕も続く。

 おそらくデザインではない、自然な木目調の内装が目に入る。とりあえず祖父が履いていた草履の隣に靴を脱ぎ、玄関に上がった。

「えっと、お邪魔します。」

「便所。」

 どんな歓迎の言葉かと思うが、彼は次にもう一つのドアを指差した。「あっちが風呂。」

「はい。」

 無論それは、まず知っておくべき重要事項だ。しっかりと頷く僕の前を通り過ぎ、祖父は玉暖簾をくぐっていく。

 その先は、ゴシック調に見えなくもない紋様の床を敷いた台所だった。小型の冷蔵庫にはずいぶんと古そうなラジオが乗っていて、開かれたガラス戸の向こうに居間らしい和室。

「腹、空いとるか?」

「……はい。」

 半ば呆然としつつ答える。実際、さっきの散歩で体力を消耗してはいた。

「すぐ作るから部屋を見ときんさい。二階のな、奥側。」

「分かりました。」

 また玉暖簾をくぐり、玄関先の階段を上る。正確には、登る。こんなに小さな家もだが、こんなに急な階段もまた見たことがない。むしろ梯子に近い気すらする。

 二階に上がるとほぼ正面に襖があり、その脇で僅かに伸びる廊下の先に、もう一つの襖。

 既に開かれているそちらへ入ると、部屋の中央に僕の荷物が運び込まれていた。室内をざっと見回す。

 元々置かれている家具は、大振りな箪笥と本棚。窓際には勉強机もあり、その向かいに布団の積まれた押し入れ。

 おそらくは6畳間だろうが、重厚な家具に囲まれているためか使える範囲は少なそうに感じられる。

 室内灯とカーテンのデザインだけが洋風で浮いていて、もしかするとここはずっと昔、母の部屋だったのかも知れないと思った。

 ほんの数歩で室内を横切り、窓を開く。向かいの民家と、先ほど登った丘の一部が見えた。

(さすがに海は見えないか。)

 この町では日が沈んでもあまり空に抗わないようで、風景はほとんどが寒色に浮かび上がっていた。それでも目に映る植物や木造の家々は、不思議とどこか温かに感じられる。

 部屋へ振り返り、段ボールを開く。多くの私物は向こうで処分してしまったので、大した量ではない。本や文房具に、制服を含む少しの衣類。あとは幼少期からの趣味である人体や植物を模した彫刻と、素材などに用いる粘土や石膏くらいのもの。

 それでも片付け終える頃にはすっかり部屋が暗くなっていた。室内灯を点けようと立ち上がるが、リモコンがどこにも見当たらない。

「……あれ。」

 怪訝に思い廊下へ出ると、壁に四つのスイッチが設えられていた。順にかちかちと押して確かめていく。内二つは用途が不明だったが、左上の一つが階段、右下の一つが自室の点灯を担っているようだ。

 一人頷いて納得していると、階下からラジオの音声とともに出汁の香りが漂ってくることに気付いた。

 降下がまた恐ろしい階段を注意深く下り、台所へと入る。

 凄まじく生臭い。

「んっ。」

 思わず声が出てしまった。祖父は一瞬こちらへ振り返り、また包丁を走らせる。その手元は真っ赤で、シンクには魚の頭部や尾鰭、内臓が散乱していた。

「……。」

 ついしばらく凝視してしまい、ふと祖父が手を洗う際に訪ねてみる。

「あの、何か手伝えますか。」

「魚、捌けるな?」

「いえ……。」

 振り返る。

「包丁は使い慣れとるか?」

「……まだ触ったことがないです……。」

 すると可笑しそうに口端を歪めた。

「見て覚えるといい。」

「はい。」

 そして彼が魚を捌く過程を見ていた。寝かせた包丁で鱗を剥がし、腹を裂いて内臓を引きずり出す。勢いよく頭部を落とし、血を洗い、大骨を除きながら切り分けていく。

 それらの動作はどこまでも洗練されており、瞬く間にその魚は身の殆どを切り出され、皿へ均等に並べられる一部と化した。

 調理において、こんなにも素早く立ち回り手際の良い人を、僕は見たことがなかった。呆気に取られながら、ただ祖父の動きを目で追う。台所の白い蛍光灯は、まるで彼の後光に見えた。

「覚えたか?」

 最後に、まな板をざっと流しながら背中で問う。

「あ、所作そのものと流れは、大体……。だけど実践するとなると、僕では到底真似できないと思います。」

 祖父は僕の返答半ばで大皿を抱え居間の方へ行ってしまった。彼は答えのYES/NOでなく、短いか長いかにしか興味がないのかも知れない。

「食おかね。」

 向こうから一言で呼ばれ、僕も居間に入る。

 卓上に並んでいるのは、白身、赤身の入り混じった大量の刺身と、貝の味噌汁。パック惣菜らしい様々な揚げ物と、見たことのない、おそらく山菜か何かの漬物。摩り下ろしたらしい青々とした山葵(ワサビ)に、ご飯をぎっしりと詰められた土鍋。

「……今日は、どなたか来られるんですか?」

 明らかに二人分よりも多すぎるのでそう尋ねると、祖父は「何を言っているんだお前は?」という顔で僕を見た。

 それ以上の反応もないので仕方なく彼の向かいに座ると、重い丼を渡される。それは洗面できかねない大きさで、両手で受け取らねばならなかった。

「好きなだけ装え。」

 言いつつ、祖父は木製の杓文字で豪快にご飯を盛った。僕も自分の食べられる限界量を装う。

 二人して食事を前にし、妙な間が空く。そして特に何の前置きもなく、祖父は食べ始めた。

「……いただきます。」とりあえず礼して僕も箸を取る。祖父は一瞬動きを止め、また椀を啜った。

 やはり先ずはと色鮮やかな刺身を食し、閉口する。

 何て訴えの強かな、活きた味がするのだろう。手間と時間を使ったものばかりを食べ育った僕に、その一切れの刺身は大変鮮烈なものだった。山葵も単なる風味づけでなく、香りに芯のようなものを感じる。

 注意深く咀嚼していると、「慣れんか。」と祖父が呟いた。

「食えんならこっちもある。」

 そう言ってフライ類の乗った皿を示される。僕は首を振った。

「いえ、すごく美味しいです。それで驚いて……。」

「……。」

 まじまじと僕の顔を見る祖父に問う。

「これは何のお魚なんですか?」

「イサキ、マアジ、アゴと、後はマグロ。」

「……マグロ以外分からないですけど、お刺身が美味しいと思ったのは初めてです。」

「……。」

 彼は黙って醤油を僕の側へ置いた。軽く頭を下げる。やがて、

「……それだけしか口が開かんのか?」と言われた。

 意味が分からず顔を上げると、祖父も若干目を丸くしている。彼は既に丼を空にし、二杯目を装っていた。

「……。」

 その速さと量から、本当に口と胃は一つずつなのかと僕とて疑いたくもなったが、「普段から食が細いもので。」と弁明のように答える。

 すると祖父はどこか心配そうに、または歯痒そうに、「しっかりと食え。さっきも、孫は女子(オナゴ)だったろうかと思った。」

 冗談か分からず、とりあえず頷いた。

「大体、そういう頭が流行っとるのか。」

「……ええと、」

 七〇年近く生きた祖父から改めて見ると、やはり僕には奇異な点が多いのかも知れない。

「ジャンレノの真似だろう?」

「……。」

 ジャン=レノ?

「大体、前は見えとるのか。」

 今までになく矢継ぎ早だ。ようやく嚥下し、訊かれた順に答える。

「流行っている訳ではないと思いますが……でも、僕だけが特別に長い髪をしているという訳でもないです。あとひょっとすると、ジャン=レノでなくジョン=レノンじゃないですか? どちらかと言うと、そちらに近いと思います。あ、それと前も、ちゃんと見えてます。」

 長い返事にはやはり興味が持たないようで、祖父は椀の殻に残った貝柱をしゃぶっていた。

 

 

 

 

 ラジオに替り点けられたブラウン管の小型テレビが、淡々とニュースを唱えている。

 僕はいつになく食べ過ぎてしまい、大きく息を吐いた。祖父は向かいで、深緑色の酒瓶を傾けている。

「どうもご馳走様でした。」

 続けて感想を述べようとすると、彼は僕にもコップを渡してきた。

「え……。」

「飲むか。」

「あ、えっと未成年なので。」

「刺身、慣れとらんのだろ。一杯入れた方がいい。」

 そう、なのだろうか? 生物の菌はどれくらいのアルコールで殺せるのだろう。逡巡していると、手元のコップにさっさと注がれ始めてしまった。

「そういうものですか……。」

「明日学校なら当たっとられんだろ。」

「はい……あ、もう。もう、大丈夫です。」

 二日酔いだってまずい。礼を言って、少しだけ口に含んでみる。何だろう、匂いも味も、渋酸っぱいというか。

「どうな?」

 顔をしかめないよう努力しつつ、

「……得意ではないですね……。やはり大人には美味しいものなんですか?」

 祖父は口端を曲げ、「苦手ではないがね。」と答えた。

 

 

 

 初めてのアルコールにやはり苦戦するも何とか飲み終え、後片付けを買って出た。

 お酒が進むと食も続くものらしく、祖父はまた刺身をつつきだした。なのでとりあえず、現状で空いた器のみを洗っていく。

 やがて、

「そういうことはできまいと思うとったが。」

 祖父は独自の切り口で話し始める人らしい。唐突なので手を休めずに振り返ると、やはりあの、誰とも違う眼差しで僕を見ていた。

「あ……いえ、はい。」

 戸惑い、おかしな返答をしてしまう。

 それに正直、言われる通り全く不慣れではある。だけど食器洗いならば包丁と違い、必要な技術も負傷の恐れもないのだし。せめてできそうなことくらいやっておいた方がいいとは、僕でも思う。

「飯も。高い物ばかり食うとったのだろう。」

「……おそらく。だけど今日の食事は、本当に格別でした。」

「……。」

 多くの人は、威圧を避ける、またはそれから逃れるために、時折は視線を外すものだと思う。

 しかしどうやら祖父は、相手から一時も目を逸らさない話し方をするようだ。肩越しながら、彼がじっと僕を見つめているのが分かる。

「……チヒロ君、」

「っ。」

 思わず、蛇口を捻り水を止めてしまった。大仰に映るかも知れない。

「……はい。」

 彼も留まりたくない間合いのようで、僅かに困った気配を見せたが、すぐに継ぐ。

「母さんのことは、悪かった。」

 悪かったな≠ニね≠フ間くらいのNで、そう呟いた。

「……。」

「あれを産んですぐうちの妻が死んで、あまり構えんでな。どっちも何を考えとるか、よう分からんまま出て行かせたようなもんだった。」

「……、あ。」

 驚くほど不甲斐なかった。今は絶対に黙るべきでないのに、ただ振り返っただけで口からはたった一言さえ出ない。

 そしてようやく、祖父の目を知った気がしていた。

 

 

 

 今まで誰もが、奥行きのない目で僕を見た。施設でも、学校でも。両親や教師も。同級生や、見知らぬ人でさえ。

 皆、膜を張ったような、自分とは違うものを見る目をしていた。それはやはり、出自や経歴などにもたらされるものだったのだろう。

 ただこの祖父だけが、そんな目ではなかった。

 大した違いなどないと、一皮剥けばどれも変わりはしないのだと。どこか諦めのような確かさで、彼は何の濁りも通さずに僕を見ていた。

 きっとそうだと悟れば、不思議と笑みが零れる。そして祖父の場合、表情よりその瞳を見るべきなのだと知った。

「……こちらこそ、血の繋がりもない僕を引き取って貰い……ありがとうございます。」

 少し中途半端な姿勢で、頭を下げる。

「本当に感謝しています。お祖父さま。」

「……。」

 そのままに。何も言わず、僕も言えず。

 やがて、何かを頷こうとしたのかも知れない。彼は俯いてコップに酒を注ぎ、それを飲まずに立ち上がった。

 挙動を目で追うが、さっさと台所を通って玄関の方へ行ってしまった。

 何だろうと思っていると、また玉暖簾を押し退けて戻って来る。

「15分したら風呂が沸く。入りんさい。」

 そう言いながらシンク前に突っ立っている僕の横を通り過ぎ、また卓についた。

 再度酒瓶を手に取り、既にコップが満たされていることに気づき、置き直す。

 僕はさっと振り返り、残る食器を洗い始めた。

 

 今日初めて会った、血縁のない祖父の瞳。

 僕はそれを、食器洗いの泡の感触と、足元の揺らぐ酔い。そして夕方の海のイメージと共に綴じた。

 

 

 

 

 シャワーは壊れているらしく、慣れない洗面器を使い入浴を済ませた。

 髪を拭きつつ、居間に向かう。

「上がりました。」

 テレビで大相撲のダイジェストを眺めていた祖父が、「ん。」と呟く。

「湯の塩梅どうな。」

 あんばい……加減か。

「あ、良かったです。丁度。」

 再度、「ん。」

 しかし、すぐに自室へ引き上げるのも愛想がないだろうか。相撲だって嫌いじゃない。

 そう思い向かいへ座る僕を祖父はちらりと見、

「今日は疲れたろう。早めに寝れ。」と言った。

 テレビは取り組みのスロー映像を流しており、カメラマンの焚くフラッシュが、時折彼の横顔に反射した。

「はい。あ、この一番だけ見たいです。」

 祖父が再び僕に目を遣る。

「贔屓(ひいき)が居るのか。」

「はい。……そんな大層でもないですが。」

 とは言え、たまにブログなどのチェックはしているのだが。

「どっちな?」

 西の外国人力士だと伝えると、祖父は頷いた。

「前はよう目立ったな。」

「はい。」

「しかしこれは、顔つきが優し過ぎはせんか。」

「同感ですが、だからこそ相撲には向くと思うんです。」

 相手の息の根を止めてでも勝つという格闘技のような心構えは、土俵に持ち込むに相応しくないと僕は考える。

「ふむ。」

 そこから特に会話はなくも、結局は結びの一番までを見た。

 アジア人の横綱は相手を土俵外へ叩きつけ、祖父は風呂に向かい、僕は二階へと上がった。

 

 

 

 自室に入り、襖を閉める。

 普段なら一度ベッドに倒れ込むタイミングだが、ここでそうするにはまず布団を敷かなければならないので、とりあえず勉強机の椅子へ深く座り込んだ。小さな机上を見渡し、息を吐く。

 夕食後の時間という穏やかさに変わりはなく、自然、昨日までの八年を過ごした家のことが浮かぶ。父の嗜好で毎晩流されていたアナログレコードの、どこか埃っぽいジャズがまた聞こえてきそうな錯覚さえ覚えた。

 だけど、ここは虫の歌声だけで満たされている。そしてそれらがもたらすものに、違いなどないように思える。

 このささやかな合唱をとても新鮮に感じるのは、単に多くの虫たちが生息しづらい場所で生活していたというより、虫の声さえ聴き取れない場所で生活していたというほうが正しいのかも知れない。

 一時の間窓の外へ耳を傾けていてふと無機質なチャイムの音が混ざり、閉じかけた目を開いた。

(誰か来たんだ。)

 にわかに緊張する。祖父は長風呂ではなさそうだが、さすがにまだしばらくは上がらないはずだ。急ぎつつも転ばぬように階段を下りる。

 インターフォンを探そうとすると、「こんばんはー。」と、引き戸越しの呼び掛け。なるほど木造であるし、こうダイレクトで済むのだろう。

 声からすると少女のようだった。それも、おそらく僕より年下。

「……。」

 一度浴室の方を振り返る。

 逡巡するが、やはり出るべきだと思い玄関前に立った。電灯を点けると、細切れの擦りガラスにぼやけた人影が浮かぶ。

「慶じいちゃん、開けるよー。」

 そのシルエットは無造作に引き戸へ手をかけるので、慌てて呼び掛けた。

「あ、どちら様でしょうか?」

 声を噤(つぐ)む気配がし、「ユズキです。」と先ほどよりは控えめな口調で応える。

「ノブトさんいますか?」

 慶人。祖父の名だ。

「はい。ただ今ちょっと、入浴中で。」

「……千紘くんですか?」

「え。そう、ですが。」

「入るね。」

 呆気なく戸を引き、少女が一人、慣れた様子で玄関から顔を見せる。

「こんばんは。」

「……こんばんは。」

 とりあえず復唱する。しかし誰だろう? 初対面のはずだ。

 そう長くはない髪は僕と同様に風呂上りなのか濡れていて、頬や首へ疎らに纏わりついている。飾り気のないタンクトップにデニムのショートパンツと軽装で、肩には水玉模様のタオルを掛けていた。

 見える限り丹念に日焼けした肌が蛍光灯の白い光を浴び、どこか不自然な色合いに感じられる。

「あ、あたし二従妹のユズキです。」

「ふたいとこ。」

 ぱっとイメージできない続柄だ。親同士がイトコということだったろうか。

「そう。千紘くんとこのお祖母ちゃんとあたしのお祖父ちゃんが兄妹だったの。」

 もうどっちも死んじゃってるけどね。けろりとそう付け加える。

「で、慶じいちゃんお風呂? 今日はずいぶん遅いんだ。」

「そう……なのかな。さっきまで相撲を観てて。」

「ああ、そっかおすもうかあ。」

 合点が行ったよう頷く。ずいぶん親しげだ。

「慶じいちゃんにね、あした千紘くんを途中まで送ってくようにって頼まれてたから。」

「え? ああ、」

 そう言われれば、ここから学校までの道順は正確じゃないが。

 しかし明日は、保護者である祖父が送ってくれるものと思っていた。なのでここにきての第三者とは、少し面食らう。

「……ん、途中まで≠チて?」

「あたしは小六だから学校違うよ。近いけど。」

「小六。じゃあ、一二歳?」

「八月にね。」とピース。

 姿を見て同級生くらいだったかと思い直したのだが、どうやら声の判断で正しかったようだ。

「小学生にしては、何だか大人びて見えるね。」

 逆に表情は、どこか心配になるほどにあどけない。今もピンと来ない様子で、だけど無防備な顔で小首を傾げた。そして「おっ。」と口を丸くする。

「慶じい、こんばんは。」

 表情豊かだなと思っている僕の背後に向かって、ハイタッチを求めるよう腕を掲げる。

 振り返ると、肌着姿の祖父が現れ僅かに口端を曲げた。相変わらず目が笑っていないし、とても小さな返事だったが、彼女はそれは満足そうに頷いた。

「柚、どうしたな。」

「え。いや、どうしたとか。」

「頼んだのは明日の朝ぞ。」

「だからって、連れてくその日に初対面て訳にはいかないでしょ。あいさつしておかなきゃ。……って、あたしもお父さんに言われて来たんだけど。」

 祖父は「そうかね。」と事も無げに頷き、次いで僕を見る。

「近くの親戚の柚希だ。俺は朝が早いから、明日はこれが学校まで送る。」

「……。はい。」

 できればそういうことは、「寝れ。」より早く言っておいて欲しかったけれど。

「それで、明日は何時にむかえ来たらいい?」

「ああ、えっと……まず中学までどれくらいかかるだろう?」

「んー、あたしの学校のちょっと先だから……たぶん三〇分くらい。」

 かな? と彼女に視線を移され、隣の祖父も頷いた。

 ……三〇分。とりあえず、時間の計算だけで進める。一応七時五〇分に職員室へ来るよう言われたが、少し余裕を見たほうがいいだろう。

「その、例えばだけど。七時一〇分にとかは……。」

 早い時間帯なので遠慮がちに訊くが、「一〇分ね。わかった。」と至極あっさり首肯された。

「結構早いと思うけど、大丈夫?」

「ん? うん。」

 再度、こくんと小さな頭で頷く。

「……んと。ではでは、また明日に。慶じいちゃんおやすみー。」

 踵を返し戸を引く彼女を、祖父は平然と見送る体。なので慌てて靴を履く。

「ちょっと、送ってきます。」

 返事を確かめずに、追って玄関をくぐる。

「あ、待って。家まで送るよ。」

 既に道路まで降りていた彼女は、再びきょとんとした。

「なんで?」

「何でって、もう暗いよ。」

 深夜ではないが、小学生が一人で歩き回る時間でもないだろう。

「この辺じゃあべつに、なんにもないよ。」

「かも知れないけど。ほら僕だって、挨拶しに行きたいから。」

 本来はこちらが出向くべきだったのだろうし。

 彼女は相変わらず平然とし、ふうん、と呟く。幼い喉は良く鳴るのか、そんな些細な声すら拾えてしまう。あるいは今日のほとんどを祖父と過ごしたからかも知れないが。

「まあいっか。じゃあ行こ。」

 こっち、と右方を指差すので、僕も道へ降りた。

 

 

 

 

 たまの四つ角に点在するだけで、街灯というものが殆ど見当たらない。あとは民家から零れた灯りだけが足元を照らしてくれる。

「……。」

 うっすらと浮かぶ柚希の背中とサンダルの音が、半歩先を行く。微かな鼻歌。

 しかし何だろう、お互いに保護者が動かず子供だけが挨拶に行き交うというのは。僕が今までのほぼ全てを大人に決められてきたからなのか、どうも不思議な感覚がある。

「……夕ご飯、なに食べた?」

 唐突に彼女が振り返り、訊いてきた。

「お刺身を。マグロと、イサキと、あと……、名前何だったかな。でも、どれも美味しくてびっくりした。」

 うんうん、と何度も頷く。

「祖父は林業をしてるって聞いてたけど、魚を捌く姿は漁師にしか見えなかったな。」

「あは。この辺はみーんな、お魚を食べて育ってるから。」

「君も?」

「もちろん。」

 答え、そして何故か笑われた。

「きみ、だって。あたしのことなんだよね?」

「……勿論。」

「ふっ。」

 妙に気恥ずかしくなり、つい問いただす。

「こっちではあまり使わない?」

「だね。僕とか君って言うのは、たぶんテレビか、ちょっと変わった先生くらい。」

「……そうなのか。」

 さほど遠く離れた地域でもないのだが。しかしそうなると、明日の学校も少し心配になる。

「ここだよ。」

 こちらの思案も何処吹く風、彼女は唐突に脇の家の門を開く。行き過ぎかけた僕も続き、敷地に入った。

 外観は白を基調とした、普通の一軒家のようだ。周囲と比べれば、割と新しそうに見える。

「ただいま。」

 板チョコレートのようなデザインのドアを開き、大声で呼び掛ける。

「千紘くん、連れてきたよ。」

 奥の方で、人の話す気配がした。一度静まり、今度は抑えたようにボソボソと。

「……?」

 彼女は首を傾げ、ちらりと僕を見る。家に上げて家族の前まで通した方がいいのかを迷っているのだろう。

 やがて廊下の先から一人の女性が、小さく駆けて来た。

「あ、お母さん。千紘くんだよ。」

「あら、……いらっしゃい。」

 母親らしい彼女の、こちらを安心させるような笑みを見て察する。

 ユズキの奔放さに気を抜いていたのだろうか。考えてみれば祖母の親族であるなら、僕に関する大方の事情を知っていて当然だった。しかしさすがに、小学生の娘に話せるような内容ではなかったか。

「こんばんは、宮口千紘です。慶人さんの家で厄介になることになりました。」

 頭を下げる。

「ご迷惑をかけるかも知れませんが……よろしくお願いします。」

 子供らしくないと思われぬように振る舞ったつもりだったが、彼女は目を丸くし「いえいえ、こちらこそね。」とまた曖昧に笑った。そして隣の娘を見る。

「うちの柚希も一人っ子で、近所には年下の子達ばかりだったから。お兄ちゃんができて、すごく喜んでるのよ。」

 取って付けたような言葉に、つい素直な笑みを返した。

 そう思うのなら、僕の保護を買って出てくれれば良かったろうに。勿論、責めようなんて気は毛頭ないけれど。

「言わなくていいし……。」柚希だけが居心地の悪そうな素振りを隠さず、はにかむ。

 あまり関わりを持たない方が良さそうだ。母親は気の毒そうな、つまり距離を置きたげな目をしていて、おそらく先ほどまで言葉を交わしていたであろうその夫は、姿を見せない。

 せっかく平和な家庭を築いているのだから無理もない。タブーを負う僕は、可哀想だがピントは合わせたくない対象なのだろう。

 なるほど金持ちの道楽夫婦に、愛玩用として選ばれそうな捨て子。またそんな目を向けられるよりは、ずっといい。

「今日はすみません、夜分に。」

「いいえ。何か困ったことがあったら、いつでも言って頂戴ね。」

 微笑む。「ありがとうございます。じゃあユズキちゃん、すぐに道順覚えるから、明日だけ案内をお願いしますね。」

「あ、うん。おねがいします。」

「では、僕はこれで。」

 辞儀し、ドアをくぐった。

 

 数歩歩いて開け放しの門を閉じ、道に下りて、

「……。」

 そもそもここまでの道順すら分からないことを思い出した。

 

 

 

「ずいぶん掛かったな。」

 若干息を切らせつつ、玄関に上がる。

「……親御さんに、ご挨拶してまして。」

「ん。」

 テレビを見ながら電気剃刀で髭を剃っていた祖父が、太い指先で顎を撫でる。

「俺はいつも朝六時には出掛ける。」

「……はい。」

「朝飯は鍋に残すが、全部食っていい。あと鍵は靴箱に置く。合鍵ができるまでは、植木鉢の下にでも隠しとくといい。」

 ほとんどが初耳だ。

「分かりました。戸締りはしっかりやっておきます。」

「ん。帰りは早い。」

「はい。」

「向こうは何てな。」

「はい?」

 やがてユズキの両親のことだと思い当たる。

「ああ。困った時は、頼りなさいと。」

「ん。」

「……あちらにも連絡、行ったんですよね。」

「だろな。」

 答え、こちらに目を向ける。僕は頷く。

「ピアノを。」

「え?」

「ピアノをよく弾いとったのだろ。」

「……。」

 確かに小学生まで習ってはいたが、それにしても唐突だ。

「あ、一応は、はい。」

「うちの二階にもある。今日はもう遅いが、明るい時間は好きに弾いていい。」

「そう……なんですか。有難うございます。」

 もう一つの部屋にだろうか。しかしこの家にピアノとは意外に思える。それも母の物だったのだろうか?

「近所の迷惑にならん位にな。」

「分かりました。」

 そろそろ休む旨を伝え、二階へ上がる。まさかピアノが有るとは嬉しい誤算だったが、確かめるのは明日にし、とりあえず今日は早めに眠ろう。

 自室へ入り、押し入れから布団を出してぎこちなく敷いていく。

(修学旅行みたいだ。)

 廊下のスイッチを切り、暗くなった部屋に戻る。

 ここから波の音は聴こえるだろうか。布団に入って耳を澄ませてみるが、届くのは祖父の観るテレビのCM音楽だけであるようだった。

 寝返りをうつ。日光と、防虫剤の香り。

 

 両親に引き取られて初めて自室を与えられた夜を、僕はどんな気持ちで迎えたのだったか。

 それと今とでどう違うのかが解らないのは、僕の記憶が不確かな為だけではないだろう。ふわりとした感覚が、決して混ざり合わずに胸中を渦巻いている。

 やがて疲れからか微睡がじわじわと浮かび、それらをゆっくり押し流していく。

 漂おう。眠りは潮でしかなくて、後は流れ着いた浅瀬で目を覚ますだけなんだ。きっと僕は、もう慣れ始めている。