平成二〇年度

 

 

 

    ♪ 5月18日

――――――――――――――――――――――――――――Breakfast

 

ある日、太陽が突然、とてつもなく巨大なバターの塊に変わってしまった。

 当然皆がそれにまず驚き、そして慌て、やがて戸惑った。

 私もやはり驚いていたが、ふと、太陽がバターになって何をそう困ることがあるのだろうと考えた。そこで、とある名高い大学者を訪ねてみた。

 なんと愚かな、とその大学者は言った。

 「もし明日にでも、西の海がとてつもなく巨大なフライパンに変わってしまったらどうする?」

 なるほど。それは困る。

 夕暮れ時、東から昇って南を通ったバターの塊が西のフライパンに落ちて溶け出したら、私たちは一体何を炒めればいいのだろう。

 

 悶々と考え、私は名のある研究者たちを訪ねてみることにした。

 

 一人目の研究者が言った。

 「そもそも大陸とは薄切りのジャガイモなのだ。我々とは、その切れ端の上で煮えを待っているだけの存在なのだ」

 二人目の研究者が言った。

 「太陽がバターであるならば、月が生玉子であることは疑いようがない。オムレツにする場合に身を溶く箸の心配をすべきだ」

 三人目の研究者が言った。

 「先にオリーブオイルをひけばよいではないか」

 

 意見はそれぞれであったが、

 「何にせよ、急いで調理の支度をするべきだ」

 という声は一致していた。

 

 西の海がフライパンに変わってしまう日に向けて、人々は各々準備を始めた。

 炙られることを恐れ、新たにジャガイモの苗を植える者たち。

 サグラダファミリアを引っこ抜いて、西の港に構える者たち。

 海面にありったけのオリーブオイル瓶をひっくり返す者たち。

 

 皆が慌ただしく西へ急ぐ中、私はひとり東へ向かった。オーブンとミルクを抱えて。

 西の海がフライパンに変わる前に、東の雲がパンに変わりはしないかと考えたのだ。

 そうしたらちぎってトーストしようと思っている。

 

 

 

 

 

    ♪ 5月20日

――――――――――――――――――――――――――――p,d,m,b.

 

「・・・!」

 少年は微かに顔を歪め、一瞬、前方への注意を取り払って背後を振り返った。

 すべてが、凄絶さを物語る光景であった。そこには、時に牙で敵を撃ち、時に四肢の爪で敵を掻っ切り、時に翼で敵を翻弄してきたかつての仲間たちが、牙で喰らいついたまま、四肢で組み合ったまま、翼を振り上げたまま、力尽き敵ともつれ合うように伏していた。

 少年は表情を変えず、再び前へ向き直る。

全身に力が漲っていた。

「小僧、我が憎いか。しかし同胞を殺された怨嗟はこちらとて同じだ。悪いが容赦はせぬぞ。」

「・・・望んでおらん。」

 投げかけられた言葉に冷然と応え、少年は佩いていた剣を抜く。磨きぬかれた白刃が、その場の陰惨さを断つように煌いた。

「勇ましいな。」声をかけた、少年と向かい合っている相手が特に嘲る様子もなく言う。

その相手とは、人間に近い姿形をしているものの、その骨肉の強靭さや、虎を思わせる爪牙、猛牛のように荒々しくそびえる角、そして毒々しい臙脂色の肌などは、およそ人間とはかけ離れていた。牙を剥き出し少年を見据えるその表情も、獲物を前にする獣類のそれである。

 そんな異形の化け物と相対しながら臆することなく、少年は抜き身を構える。先ほどから高まりつつある空気の熱が、勢いを増した。

「貴様を倒すことが、この旅の目的だった。・・・支えてくれた者達の為にも、」

 その熱を肌で感じながら静かに口を動かす少年の形相が、さらに強張る。

「私は負けられぬ。」

「威勢のいいことだ。そのまま仲間の後を追うがいい。

・・・先に待っているお前の両親も、さぞ喜ぶことだろう。」

「なんだと? それはどういう・・・貴様、まさか・・・!」

 ニタ、と歪んで浮かぶ笑みを見て、少年は激昂した。高まり張り詰めていた膨張が破れ、弾ける。

「おのれェエッ!」

咆え、少年は両脚に込めた力に任せて駆ける。

己へめがけ雄叫びとともに斬りかかってくる彼に、その相手が怒号で応えた。

「来い、桃太朗! お前をここまで生き永らえさせたきびだんごの礼をあの世で言うがいいッ!」

 

 

 

 

 

    ♪ 6月18日

――――――――――――――――――――――――――――white

 

 靴の上を歩く人に言うことは無いのだけれど つまり私は、道とか前とか後ろとか関係なく歩きたい

 鞄を引きずる人に言うことは無いのだけれど つまり私は、この手で持てないものなら抱えたくない

 

 

しかし冷蔵庫の牛乳は 日付が今日までだから

混ぜるシチューを煮る時間が無いのならホットミルク。

 

 

 

 

 

    ♪ 8月1日

――――――――――――――――――――――――――――前夕

 

 彼女は、ずっと窓を眺めている。

 

 

 

 

 

 僕はここから、その姿を見つめているのがすきだ。

 冷蔵庫の隣に、ほとんど居場所に困って置かれてるような椅子があって、僕はそこに座って、ずっと彼女を見ている。例えば煙草に火を点けることも、例えばカップにほろ苦いコーヒーを注ぐこともなく、また飽きもせず。ただずっと。彼女と、彼女が見ている景色とが溶け合っていくのを見ている。

 「・・・ね、止んできたかも。」

 わかっている。君が僕へ振り返るのはその時だけだ。

「雨。」

わかってるって。

 煙草もカップも持ってないから、何の処理も支度もいらない。

 手を繋ぐことなく、部屋の鍵を閉めることすらせず、そうして僕らは出かけていく。

 

 

 この日課がいつから続いてるのかは、きっと彼女も覚えていない。

 夕刻、にわか雨が降ったら、止むまで待つ。止んだら部屋を出、歩く。

 濃く鮮やかなアスファルト。湿り黒ずんだ塀。そこから顔を出す夕顔。しずくを纏った葉。側溝を流れる水の音。

居心地悪そうにまた座りなおす野良猫。濡れた羽で飛び立つ虫。吐息のような風。

 水に洗われた石造りの町すべて、オレンジとイチゴを足したような、淡く甘い色で温められていく。

 

 こうして一緒に歩いても、僕らの見るものはそれぞれ違う。

 僕は、濡れた路地を見ている。所々に水溜りを浮かべた道は、いつもより優しい色でゆらめいているから。

 彼女は、濡れた空を見ている。ビルの少ない町並みの底へ、飴のように溶けていく太陽を追っているから。

 そんな二人だから、たまに道が分かれるとき、それぞれが違う方向へ進もうとする場合がある。彼女は意外そうに僕を一瞥するけど、何も言わず選んだ道を進んでいく。

 僕は大抵、進路を変えて彼女の背を追う。こちらからあっさり折れるのは少し癪(しゃく)でもあるけれど、仕方なく。

「ついてこなくていいのに。」

 優しくないことを冷たくもなく零される。「気が変わった。」とか言うのも白々しいので、「別に、なんとなく。」とか返しておく。

 「ふーん。」

 それ以上構う気もないらしく、事実構わず、彼女は道を歩いていく。

 

 手でもつないで歩けたら、少しは違うのだろうかとか(道が分かれるとき引っ張り合うことになるから)。

 相変わらず振り返らず、彼女は道を歩いていく。

 その夕色の姿を見つめている。

 彼女は僕にとって風景なのだろうかとか(いつもあって、且つ一方的に眺めるだけだから)。

 

 明日も夕立が降るらしい。

いつも彼女を後ろから見ているから、明日くらいは、僕が彼女の前を歩いてみたいと思う。

 

 

  ※ 夕紅につづく

 

 

  ♪ 9月6日

――――――――――――――――――――――――――――↑↓↑ ↑ ↑↓

 

 紡ぐアルペジオを爪弾いていて、不意に激しくストローク。

 訳。

音があり、それはか細い。故に、音が消えゆくその静寂に耐えられず。

ならばと、音を強く大きく響き鳴らす。すると静寂は掻き消えていく。

 無論その音にも来たる静寂があるはずだが、それをどうするかはその時は考えられず。

 延々繰り返していようか。アンプにでもつなごうか。歌でも添えてみせようか。

 思うほど強くはいれず、音たちに割り切れぬ思いをただ。

 

 

 

 

 

  ♪ 9月8日

――――――――――――――――――――――――――――ありもしない話

 

「また、ここには花が咲いているのね」

 突然ふらりと現れた彼女が、辺りを見回してぽつりと言った。

「ああ。でももう枯れていく。近くに行って見てごらんよ。茶色く変色してるから」

「いいわよ。そんなの見たくない」

 来て早々うんざりしたように肩をすくめ、彼女は僕の前へと歩み寄ってきた。

「久しぶりね」

「ああ。何か用?」

「用はないけど。お葬式をしようと思ったの」

「誰のだい」

「あなたのよ」

そう言って彼女は掛けている学生鞄をごそごそと弄った。僕はそれを見上げて何かを言おうとしたけど、この娘はそもそも人の話を聞かない。なので、有難い話だけどね、と小声で呟くだけにした。

 鞄から目当ての物を取り出し、彼女はそれを地面に、つまり僕の目の前に置く。

「・・・何を持ってきたかと思えば」

「お葬式には必要でしょう」

「線香といえば、線香だけどさ」

 アロマキャンドルで故人を弔うなんて聞いたこともない。

「ラベンダーの香りよ」

 そんなことも別に聞いてない。

 彼女は紫色のあざやかなカップに、マッチで火を点けた。小さく灯って、細い煙が立つ。

 いい香りじゃあるけど、ちょっと顔に近い。熱いし煙い。

 その旨を伝えようと視線を上げると、彼女はキャンドルの前に正座して、手を合わせていた。それからパンパンと二拍手して(間違っている)、なんまいだーとか言い出した。

だから何教なんだ君は。

「―――アーメン」

 締めはそっちなのか。

 短く黙祷し、やがてフウと息を吐いて、彼女は近くの椅子に座った。学校でよく使われる、ニスを塗った木製の椅子だ。

「君は死後、どの世界に行くんだろうね」

 心から思った疑問だ。僕としては地獄だと思うが、それにもいろいろ種類があるだろう。

「わからないけど、あなたみたいにならないのは確かね」

 胸元を扇ぎながら、きっぱりと答える。確かに、君は殺しても死にそうにない。

「それにしても・・・だいぶ涼しくなってきたわ」

「ああ。秋も近いね」

「解夏≠チて、今くらいの時期を言うのかしら」

「どうだろう。・・・仏教用語だよね、それ」

「映画で知ったのよ。 お坊さんたちの集まり・・・って言っても修行だけど。それが終わる時のことを、解夏って」

「うん。原作の小説を読んだことがある」

「へえ、そうなの」

 つくづく、この娘とは。

 まともな会話をしていなかったなと思う。

「ところで、僕は」

「ん?」

「君は、ここに死にに来たとばかり思ったんだけれど」

 特に声音を変えず言う。特に表情を変えず、

「そうね」

 彼女は答えた。頷きもせず。

「それもあるにはあったけど、やっぱり止すわ」

「ちなみに、なぜ?」

「・・・」

 答えず、椅子から立ち上がる。

「そろそろ帰るわ。その蝋燭が消えたら、お葬式終了ってことで」

 作法も何もあったもんじゃない。

「じゃあね」

「・・・ああ」

 よどみない動きで僕に背を向け、歩き出した彼女だったが、数歩で立ち止まった。

「・・・たとえば、」

「うん?」

「新しく友達が出来たから、とかじゃダメかしら」

「・・・」

僕的にも、アウト。

 

 

 

 

 

  ♪ 1月12日

――――――――――――――――――――――――――――

 

 とある夫婦がおりました

とある日 妻が子を身ごもりました

男の子と 女の子の 双ツ子

しかしその家筋の古習によって

生み育てるのはどちらか一方のみと

ふたつにひとつと 選ばなくてはならなくなりました

 もう男の子はいなくてよいので

 夫婦は女の子を選びました

夫婦は男の子を選びませんでした。

 

 やがてその日が訪れて

双子は腹から生まれました

 生まれてすぐに片方は

産声を上げる間もなく呼吸を止めました

 こうして美しい女の子を犠牲にし

醜い男の子が残りました

 選ばれなかった男の子は死にたくなくて

 選ばれたはずの女の子から命を奪い生まれたのでした

 

 きこえてくるのは    「あのとき生まれてきたのが、

いくつもの        今そこで生きているのが、

いくつもの、       これから生きていくのが、

言葉。          お前じゃなければよかったのに。」

 

 男の子は道化のように俯き笑い歪に泣いて

何のためにか生きていきましたとさ。

 愛でたし。

 

 

 

 

 

  ♪ 2月6日

――――――――――――――――――――――――――――drunk

 

 人は包まれている。

 それは光陰にだったり、森にだったり、海にだったり、町にだったり。

 船の無い海に降る雨を見届けは出来ないことからも想像できるように。

 ただ囲まれているのではなく、静かで確かで揺るがない優しさの中に。

 どこかにいる限り、人は包まれていられる。

 

 つまらない感情など除き、人を包んでいられたら。

 森や海になれなくても、たった一本の樹や、凪の水面ほどになれたら。

 誰かが寄りかかっていられる声や体。誰かが漂っていられる言葉や心を持てたら。

 貝を求め転がる殻は、同じ音を繰り返し響かせながら。

 

 

 

 

 

  ♪ 3月3日

――――――――――――――――――――――――――――眠りむ背

 

 路肩にて

 きっと誰もが一瞬で通り過ぎていく、 道程の途中でしか

 まちの隙間でしかないこの道に車を停めて  二人シートを倒し寝そべっている。

 この場所にこんなにも長く留まり、この場所の静かさに沈んでいる 

流した涙が乾く頃眠り  私は先に目覚めていた

 聴こえない寝息を探すように  向けられた背に身を寄せてみる

 眠る背は±0の温度で  甘くないやわらかさをくれた

 抱き寄せようもなくただ手を添えて 揺れる呼吸に触れてみる

 ふと背の向こうの窓の向こう 陽が傾いていた

 垂れ下がる木々と側溝と歩道 同じ色で染まり

 少し開いた窓の隙間から聞こえる虫たちの声

 耳元に響くそれに囲まれても 寝息も立てず眠っている

 輪唱のように続いても 背の波うちは同じようくり返す

 打つような雨や すぐ横を通り過ぎていく車の音でも きっと聞こえていないのでしょう

 何ならあなたに届くのですかと ふと思わずにいられなかった

か細い声や曲がった指で 抱き留められやしないので

 すべての涙が正しいのかと考えてしまった 私がだ

 

 

 

 

 

  ♪ 3月24日

――――――――――――――――――――――――――待惚

 

 夏草の小径に想い焦がれる

 吹き止んだ風が残した香り

 瓶底を埋める音だけで響く

 例え木々が覆ったとしても

見上げたものすべてを空と呼んだ

 いつもただ手が届かないだけ